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プロフィール

Yasukatsu Matsushima

Author:Yasukatsu Matsushima
1963年琉球石垣島生まれ。石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島にて育つ。

その後、東京、グアム、パラオ、沖縄島、静岡、京都、滋賀にて学び、働き、生活する。

著書に『沖縄島嶼経済史―12世紀から現在まで』藤原書店、2002年
『琉球の「自治」』藤原書店、2006年
『島嶼沖縄の内発的発展―経済・社会・文化』(編著)藤原書店、2010年、
『ミクロネシア―小さな島々の自立への挑戦』早稲田大学出版部、2007年
『琉球独立への道』法律文化社、2012年
『琉球独立論ー琉球民族のマニフェスト』バジリコ、2014年
『琉球独立ー御真人の疑問にお答えします』Ryukyu企画、2014年
『琉球独立宣言ー実現可能な5つの方法』講談社文庫、2015年
『民際学の展開ー方法論・人権・地域・環境の視座から』(編著)晃洋書房、2012年
『琉球列島の環境問題ー「復帰」40年・持続可能なシマ社会へ』(編著)高文研、2012年
『3・11以後何が変わらないのか』(共著)岩波書店、2013年
『島嶼経済とコモンズ』(編著)晃洋書房、2015年
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松島泰勝の家の近くにある、小野妹子の墓がある丘です。生活の中で古代を感じることができます。この地域には古代において多くの渡来人が移住しました。時代状況は異なりますが、私自身も「現代の渡来人」だなと思います。

松島泰勝の家の近くにある、小野妹子の墓がある丘です。生活の中で古代を感じることができます。この地域には古代において多くの渡来人が移住しました。時代状況は異なりますが、私自身も「現代の渡来人」だなと思います。

京都府立大学の川瀬さんから、『国際化時代の地域経済学』を頂戴しました。心より感謝します。大学で地域経済論を教えていますので、大変参考になります。

北京大学の徐先生から徐勇・湯重南編『琉球史論』中華書局2016年刊を頂戴しました。心より感謝申し上げます。琉球の独立国時代から近現代の植民地時代までを、中国の歴史学者がどのように認識しているのかを知りたい思います。中国語ですが頑張って読んでみたいです。

九州の福岡で発行されている雑誌『フォーNet』の最新号が届きました。松島泰勝の「「琉球独立」のリアリティを訊く」という記事のほか、沖縄国際大学の狩俣恵一教授の「「日琉同祖論」という誤解を解く琉球の言語・文化面から見た沖縄問題」という、大変興味深い記事も掲載されています。是非お読み下さい。
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バスの中の両親

沖縄国際大学にバスで行った時の写真です。この時も両親はシンポに来てくれました。私が生まれた時から今まで常に励まして、時には叱ってくれる有り難い両親です。私が石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島で生活できたのも父の仕事のおかげです。今も地元紙を読んで、いろいろと自分の意見を言ってくれます。遠慮のない真摯な意見がありがたいです。

豊橋で琉球独立論を議論する

昨日は、雨の中を約150人の方が私の講演に来て下さり、心よりお礼申し上げます。長野県からも来られた方もいました。質疑応答でも多くの方が質問をして下さり、充実した議論が行われました。憲法学者の金子先生からも多くのことを学ばさせて頂きました。

「安保関連法案は違憲であり、こなものは認められない!」という声は学者だけでなく、多くの民衆からも挙っているということを肌で感じました。琉球独立論を豊橋の方々ともいろいろと真摯に議論できてよかったです。

ビックバンとビックアイ

講演会場の隣にあるのが大阪府立大型児童館の「ビックバン」です。子供のための遊び場、宇宙を学ぶことができる施設です。子供達が大型バスで来ていました。漫画家の松本零士さんはここの名誉館長で、UFOのような建物をデザインしたそうです。

牧野元沖縄県副知事も本で「子供科学館」を提唱していましたが、このようなものをイメージしていたのでしょうか。この隣にある国際障がい者支援センターのビックアイで「スコットランド独立」についての講演をさせていただきました。参加者から多くの質問や意見を頂戴し、充実した意見交換ができ、私も学ぶことができました。

リトル沖縄

大正駅のホームから見える琉球料理店です。「はいさい」「やまねこ」にもいつか行ってみたいです。ホームで電車にのるとき「てぃんさぐぬはな」のメロディーの一部が流れ、ホームの「大正駅」と書かれた看板にも琉球のデザインが施されていました。大正区平尾商店街周辺は「リトル沖縄」とも呼ばれています。短い時間でしたが、琉球の空気を吸うことができたひと時でした。

石垣金星さん、琉球人さんからの年賀の言葉

石垣金星さん、琉球人さんから年賀の言葉を頂戴しました。
にーふぁいゆー。




2012辰龍立年 新年(あらどぅし)ぬ言葉飾(むにかざ)りしさりるんゆう!

※バシマムニ(西表の島言葉)で新年の挨拶申し上げます。
※ルビがきちんと表示されず( )がルビとなっています。

... 「珠玉(あらたま)ぬ年(とぅし)に炭(たん)とぅ昆布(くぶ)飾(か)ざてぃ
   心(くくる)から姿若(しがたわか)くなゆさ」(新年かぎやで風節)

「古年(ふるどぅし)ば後(くし)なし 新年(あらどぅし)ば迎(もぅ)—ひおーりとーり しかっとぅ にはいで うまりるんゆう!
昨年(くず)め大和(やまとぅ)ぬ島(しま)な大(ま)いさぬ地震(ない)んたたい起(う)くり&大津波(うぶなん)ぬり 原発爆発(げんぱつぱちうくり)り
北国(きたぐに)ぬ人々達(ぴとぅきゃー) 気の毒(きむっすあ〜)でぃ 思(う)まりるんゆう
八重山(やいま)ぬ島々めー教科書問題し文科大臣め まらきしょう!我々竹富町(ばわだんしま)ぬ子ども達(ふあんきゃ)てぃめ 「無償」し ふんでぃ 分けの分からない話(あてぃんがらんむに)いい 
あがよう〜!!腹立さり(ばだふさり)ならん。
うりはら隣ぬ与那国(ゆぬん)ぬ島(しま)なー自衛隊(ぐんたい)ば誘致(さり)きゅんでいうくとぅはら「上等」「ならん」で大問答(うふむんどう)ぱちうくり与那国(ゆぬん)ぬ島(しま)め一大事(みぬさぬくとぅ)なりぶんゆう。
また沖縄(うきな)ぬ島めーヤンバル高江ヘリパット基地、泡瀬干潟埋め立て、普天間基地辺野古移設問題、、年末ぬ真夜中、防衛省はユーバイ(夜這い)し知(し)さんぽーりし沖縄(うきなー)ば「犯し」ぶきゃ ウマンチュはら追〜り(わーり)逃(ぴ)んぎ行(ん)ぎゃん、
むっとぅ気の毒(いなむぬ)でぃ思(う)まりるんゆう。

かしぬ汚ぬ(しぷちなぬ)大和政府めびったがし海(すな)な掴ん投ぎ捨てぃ(ちかんなんぎしてぃ)なからならんでぃ思(うま)まりるんゆう。
今年(くとぅし)めかしぬ悪事(やなくとぅ)め後(くし)なし身体強(どぅぱだつう)さありとうりり 皆様(けーら)の上(うい)なあ 家族(やーきねー)ぬ上(うい)なあ 琉球(りゅうちゅう)島村(しまむら)ぬ上(うい)なあミリク世果報(ゆがふ)ぬ 良い事(いいくとぅ)がーに あらしとーりで かし願(にが)いしさしるんゆう しさり!!、
正月元旦(そんがちぐぁんにち) 琉球西表(りゅうちゅういりむてぃ) 石垣金星(いしがききんせい)






明けましておめでとうございます!
今年辺りから、「天下分け目」の時代に突入する事は、間違いなさそうですね。
本質だけが放つ、「琉球のカラー」もハッキリとしてくるのではないでしょうか?

お互いに、日本人を含め何処の人々に対しても、狭い了見に囚われない様に頑張りましょう。

この世は、所詮修行ですから。


復帰運動から学ぶべきこと

昨日の琉球新報に掲載された前利さんの論考を、ご本人の了解のもと、掲載させていただきます。

徳之島の3人の町長は決然と首相に対して反対の意思を示しました。「何十回会っても平行線。われわれは反対なので、意味がない」と今後の協議も拒否しました。仲井真知事も、3人の町長のように民意を受けて、明確に首相との協議を拒否すべきです。

徳之島、沖縄島どこにも基地は必要ないという民意を行政の長は代弁する義務があります。





復帰運動から学ぶべきこと
前利 潔(沖永良部島、知名町役場職員)

 徳之島への米軍普天間飛行場の移設問題について、沖縄県外だが、沖縄「圏内」でもある、という主張がある。鳩山首相にとって徳之島案は、沖縄県外であり、日本(本土)でもない、ということに魅力があるのではないか。奄美諸島は沖縄(琉球)圏内なのか、日本なのか、それは復帰運動で問われた問題でもあった。

 移設反対派は、運動の姿を復帰運動に重ねあわせている。4月16日、奄美大島日本復帰協議会(復協)の議長を務めた泉芳朗の生誕地(徳之島伊仙町)で、有志らが「米軍基地移設反対の集い」を開催し、18日の反対集会の成功に向けて決意を示した。

その決意とは、「軍政下の弾圧をはね返して復帰闘争を繰り広げ、99.8%の嘆願署名を実現し、ついに非暴力で祖国復帰を果たした先人たちのあの日の思い」(4月24日付「南海日日新聞」一面コラム)を共有したいということだろう。

 復帰運動の内実に目を向けると、疑問がわいてくる。復帰運動は、奄美諸島を沖縄(琉球)圏外と位置づける運動でもあった。「99.8%の嘆願署名」に添えて連合国軍最高司令部に提出された嘆願書(51年5月)は、「奄美群島は、琉球列島とは全然別個のもの」であり、「古来からの日本領土」であることを主張していた。

「講和七原則」(50年12月)において米国の信託統治下に置くとされた「琉球諸島」に奄美諸島は属していない、という意味である。講和条約発効後も沖縄とともに米国の占領下に置かれた奄美諸島だが、復協内部では路線転換が行われた。

沖縄をふくめて米国の占領政策に反対する「講和条約三条撤廃」派が排除され、奄美諸島だけの復帰を主張する実質復帰派(「元鹿児島県大島郡の完全日本復帰」)が復帰運動の主導権を握ったのである。これが復帰運動の内実である。

 米国にとって奄美諸島の返還(53年12月)は、恒久的な軍事基地としての沖縄を保有するための「戦略的道具」(西欧の特派員)であった。普天間飛行場の徳之島への移設案は、鳩山首相にとっては公約実現のための「道具」でしかないのではないか。

 4月25日に開かれた沖縄県民大会に、徳之島三町長から「普天間の基地は沖縄にも徳之島にも必要ない」というメッセージが寄せられたことは、評価したい。しかしその2日後の27日、奄美群島市町村長会、同議会議長会が採択した奄美群島への米軍基地・訓練施設移転に反対する共同宣言には、「沖縄県内への移設反対」の文言はない。

徳之島を地盤とする徳田毅衆議院議員は、「キャンプ・シュワブ沿岸部に移設する現行計画しかない」(4月17日付「南海日日新聞」)と主張している。

 今日(7日)、鳩山首相と徳之島三町長の会談が予定されている。徳之島への米軍基地移設反対運動に問われてくるのは、「普天間の基地は沖縄にも徳之島にも必要ない」という理念を堅持できるのかどうかである。沖縄を切り捨てた復帰運動の再現であってはならない。

島と島との強いつながり

kurousa95さん、コメントありがとうございました。コメントを紹介します。

私は初めて奄美大島にいったとき(瀬戸内町でしたが)、生まれ島に帰ってきたように
大変嬉しかったです。学生との調査旅行、ゆいまーる琉球の自治の集い等で、奄美諸島の方々と
知り合うことで、さらに互いの強いつながりを実感しました。

外部の勢力によって分断されそうになっても、引き裂かれない強靭な琉球の基盤があると思います。

このブログのNPO法人も琉球の島々が互いに顔を合わせ、互いに学びあい、励ましあうことを目的にして
つくられました。今月は宮古島で行います。この集いにも奄美諸島の方も参加する予定です。

kurousa95さんも、ご都合がついたら、いつかご参加ください。




私の拙いコメントを取り上げていただきありがとうございます。
徳之島が基地の受け入れ反対を表明したことについての
沖縄からの怒りのメッセージをいくつか見かけたこともあり、

先日は悲しくてついコメントしてしまいました。

薩摩の侵攻以降の歴史を共有していない、地上戦を経験していない、

先に日本復帰してしまった、基地がある痛みを知らない奄美は
こちらが一方的に親近感を抱いていただけで、沖縄からは仲間だとは
思われてなかったのかな、と。

一方私も、沖縄の基地問題の存在は知っていても
どこか他人ごとのように思ってたのではないか?と反省しました。
基地の問題は、琉球弧だけでなく、日本全体が自分のことと思い
考えていかなければならないと思います。

管理人さんの、奄美諸島も、沖縄諸島も、宮古諸島も、八重山諸島も
仲間だと思っているというお言葉は嬉しかったです。
ありがとうございました。

沖永良部島における米軍基地拡張反対運動

本NPOの理事の前利さんの「沖永良部島における米軍基地拡張反対運動」という文章をご紹介したいと思います。
かつて沖永良部島にも米軍基地があり、住民は強くそれに反対したという歴史があります。今日、徳之島で激しくなっている反基地運動のことを考えながら、お読みください。

島人が土地を自分の体の一部と考える気持ちは、太平洋諸島にも見られます。土地を奪うことがどれほと島人にとって身が割かれることなのかが、沖永良部の戦いから知ることができます。



沖永良部島における米軍基地拡張反対運動

前利 潔(自治労大島地区本部副執行委員長)

 3月28日、徳之島で米軍基地移設に反対する4千人規模の郡民大会が開かれた。半世紀前、知名町において米軍基地の拡張を阻止した町ぐるみの反対運動があったことは、『知名町誌』にも記されていない。半世紀前の米軍基地拡張反対運動を紹介することによって、徳之島への米軍基地移設問題を考えたい。

 1956年2月5日、田皆小学校に約3千人の町民が結集し、米軍基地拡張に反対する総決起大会が開かれた。占領時代、大山頂上に米軍基地が建設されていた。第313師団(嘉手納基地)の指揮下にある大型レーダーサイト・ネットワーク(沖縄本島南部与座岳、久米島、宮古島、沖永良部島)の一つである。

恒久的な軍事基地の建設を沖縄に進めていた米国は、沖永良部島の西海岸(田皆地区)に滑走路と浮桟橋の建設を計画した。

 総決起大会では、「断じて農地を守れ」「教育がめちゃめちゃになる」という発言があいついだ。田皆地区の奥間区長は、「私たちの町はすでに5万8千坪の基地を提供しており、これ以上、基地用の土地は残っていない。いま接収されようとしているのは私たち農民の最後の土地だ」と訴えた。

田皆地区は、福岡調達局(後の福岡防衛施設局)長宛てに「飛行場の設営に対して、吾等死を賭して反対する」という抗議電を打っていた。大会後、「基地反対」のプラカードを先頭に、基地内を横切るかたちで、20キロにもおよぶデモも行われた。

 知名町当局及び議会側は、当初は福岡調達局による立入調査については同意していた。56年1月、町議会の協議会の場で田皆地区の代表は、「(議会が)先に立入調査に対して同意を与えた電報の結果、今日このような事態なっているので、その責任は重大である」

「日本全体として基地設営に反対しているのに、知名町だけこれを許したことは、遺憾である」と強い調子で意見を述べた。これを受けて、町当局及び議会側は、立入調査もふくめて「絶対反対」の立場を明確にし、町民総決起大会の開催を決めた。

 当時、砂川闘争(東京都立川市)に代表されるように、全国各地で米軍基地建設(拡張)のための土地の強制接収に反対する住民運動が起きていた。沖縄は、武装米兵によって農民が土地から追われ、農地の強制接収があいついだことによって、島ぐるみの土地闘争の最中にあった。

知名町における米軍基地拡張反対運動は、現代史(戦後史)の中に位置づけるべき闘いである。

 沖永良部島の米軍基地はレーダー基地という性格(後方部隊)からだと思われるが、聞き取り調査などから、知名町民はけっして反米的ではなかった。しかし1960年には、米兵による傷害事件をきっかけに、米兵の逮捕を要求して群衆700名が知名交番を取り囲むという、暴動寸前の事件が起きている。

 占領史の視点から、みてみよう。奄美諸島に対する施政権の日本国への返還(53年12月25日)は、軍事的主張(国防省と軍部)と政治的主張(国務省)のバランスをとるかたちで実現した。軍部が返還に反対した理由は、軍事的施設の権利であった。

その軍事的施設を代表するものが、沖永良部島の米軍基地であった。ダレス国務長官による返還発表(8月8日)後も、軍部は軍事的施設の権利にこだわり続け、米国内部において返還協定の合意が得られるまで3ヶ月も要した。

 米国が世界的に進めている米軍再編における日本の位置づけは、必要な時に日本を兵站補給、部隊展開の前進拠点にすることだといわれている。普天間基地に所属する海兵隊は上陸急襲部隊という、最前線の部隊だ。後方部隊であった沖永良部島の米軍基地の性格とは、正反対である。

また米国にとってみれば、思いやり予算などで、他国には例のないほどの基地経費を負担してくれる日本国内の基地の権利を手放したくないのだろう。民主党政権は、半世紀以上も続いた自民党政権による対米従属を転換し、普天間基地の県内・県外移設ではなく、即時撤去を米国に求めるべきではないか。

東風平謝花さんからカジノについてのご意見

東風平謝花さんから、カジノについてのご意見が届きましたので、お伝えします。

他のみなまさも、どしどし、ご自分のご意見をお寄せ下さい。






マカオや韓国などを見ても、カジノは斜陽です。なんで今もなお、カジノに幻
想を抱くのか、理解できません。


 世界有数の観光地であるハワイにはカジノはありません。


 仮に沖縄にカジノを作っても、世界にある複数のうちの一つであって、希少価
値は低くなるだけ。それよりも海や文化など、沖縄らしさを売りにした観光を目
指すべきでしょう。


 治安監視部隊とは陳腐な発想です。それだけ、治安が悪いと来客にアピールす
るだけで、カジノ以外を目当てにする観光客が逃げますよ。

カジノをどう考えるのか(南国リンゴさんにこたえて)2

南国リンゴさんからのお返事が届きました。感謝します。他の皆様も、どしどし、ご自身のご意見をお願いします。このブログが自由な意見交換の場になればと思います。



先島諸島に行けば、所得がそれほどなくても、豊かな生活を送っている方が大勢います。>

それは一側面だと思います。

豊かな生活を送っているはずの沖縄人が多いはずなのに・・・なぜ、沖縄は自殺率が高いのでしょうか?


松島 『琉球の「自治」』『環:今こそ琉球の自治を』で紹介しているような、私が出会った人々の中に私は本当に豊かさを見出しました。このような琉球人は本来もっと多かったと思いますが、特に、「復帰後」、開発、近代化、市場総経原理が怒涛のように琉球に導入され、その中で倒産、失業、病気、社会的孤立等により、自殺率が高くなったと考えます。


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2009/10/12 18:16 | 南国りんご #hkjhWKO2 URL [ 編集 ]
治安部隊というのは軍隊ではなく、警備員や民間の警察のような部隊のことをいいます。



松島

 カジノを琉球に増やすことにより、島には警備員、民間警察、監視カメラも同時に増えて、
監視社会になり、住民は非常に住みづらくなるのではないですか。警備員や民間の警察を総括するのは沖縄県庁ですか。そうであれば、沖縄県庁は大きな権力組織となり、カジノ以外のことについても、住民を監視、支配するようになるのではないですか。

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2009/10/12 18:19 | 南国りんご #hkjhWKO2 URL [ 編集 ]
基地問題にしても、沖縄は貧しいから足元を見られているのです。理想や理念があっても、貧しいから理想・理念を貫くことができないし妥協してしまう。
これが現実でしょう。



松島

カジノにより、自主財源を増やし、国からの経済依存をなくし、失業問題、低所得問題を独自で解決することで、理想や理念を実現できるという、南国リンゴさんのお考えは、理解できないこともありません。実際、日本政府は、琉球の依存性を利用して基地を押し付けているのですから。

しかし、私はカジノを誘致し、カジノが琉球中に広がる過程で、社会問題が発生し、自治体の管理費用も増大し、結局は経済自立につながらないと考えます。カジノは琉球にとって内発的な産業になるのでしょうか。

琉球のこれまでの内発的発展、自治、平和の実践は理念や理想であるとともに、現実に裏付けらたものであると私は考えます。経済自立をしてから理想や理念を実現するのではなく、今直ちに、自らの理想、理念を主張し、実現せしめようとするのが、人間の当然の姿ではないでしょうか。




“ギャンブル依存症が増える、心の豊かさ云々、中卒・高卒も人格的に優れた人が沢山いる、カネが全てではないい・・・”。そんなこと言ってちゃ、いつまでたっても沖縄は経済的に発展しないと思いますよ。
競争も生まれないでしょう。
雇用環境も作れないから(県外や海外の大学を卒業した)優秀な沖縄人はソトで就職。
県内の優秀な人は公務員になり産業が生まれない。
いつまでも、基地請負の島としての地位に甘んじることになると思います。



松島
南国リンゴさんは、経済発展の理想像を東京、大阪のような場所を考えてませんか。私は東京に住み、大阪にもよく行くのですが、琉球に比べて必ずしも豊かな場所であるとは思いません。失業、自殺、犯罪等、多くの問題が山積しています。開発、競争による経済自立を目指して突き進む過程で、琉球は自らがもってきた宝を失ってきたのではないでしょうか。

「優秀な沖縄人」とは誰ですか。学校の成績が高得点をとり続けた人ですか。本当に優れた人は、自らの力で生きる土台をつくっている琉球人であると思います。西表島の石垣金星さん、音楽家の海勢頭豊さん、久高島の内間豊さん、奄美大島の新元博文さん、伊江島の阿波根昌鴻さん等、学校の成績は優秀でなかったかもしれませんが、私が出会った方々は、島の生存を自分自身のこととして考え、島の自治を率いてきて来られた方がです。

ぬちまーす、紅芋タルトなど、琉球人で独自な地域に根差した経済活動をしている人が増えているのではないですか。琉球も捨てたものではありません。琉球とはこれまで縁もゆかりもないカジノに夢を託す必要もありません。



沖縄は東のマカオになれるのです。
東京よりも“上海・福州・台北・杭州・蘇州”が近い。
中国沿岸部の裕福層をターゲットにできます。
外貨・外資を獲得できるのです。
北谷のハンビータウンの真向かいにあるキャンプフォースター一帯が返還されて、そこにカジノを誘致すれば、基地を負担している本島中部地区の人・嘉手納住民も多く雇用できるのです。


松島
琉球は非常に良い地理的場所にあり、カジノの成功のための夢は広がります。かつて、琉球の将来像として、香港、シンガポール、ダブリン等がモデルとされましたが、すべて失敗に終わっています。今度、またマカオをモデルにしても、同じように失敗する可能性があります。ただ、琉球の位置がいいだけでなく、過去の失敗の原因を明らかにして、富裕層を誘致するための戦略を具体的に考えなければ、机上の空論に終わってしまします。

カジノができたとして、地元住民はどのような職種としてカジノで働くのですか。現在の観光業の大部分にみられるように、不安定、重労働、低賃金の雇用が増えるだけではないですか。




はぁ~悲しいかな。
ウチナーンチュは、松島先生のような考え方の人が多いと思うんですね。
松島先生は、学歴も高く、教授という社会的地位を得てますし、所得もそこそこ高いほうでしょう。
手取り10万円程度のウチナーンチュを目の前にして、“カネが全てではない、学歴が全てではない、心の豊かさ云々”沖縄の低層にいる人間に対して“そう”説けますか?

 フルタイムで働いてもリゾートホテルの掃除さ~は月9万円(私の叔母)。バスの運転手は、残業・休日出勤をして体調を壊すくらい必死に働いても15万円。有名な観光施設で5年働いても月給は14万円程度(大卒・いとこ)。これが沖縄の観光業の実態ですよ。



私は南国リンゴさんのように考える琉球人も多いような気がします。
私は、琉球の島々やグアム、パラオで生まれ育ち、働いてきました。年に5、6回は、琉球の島々に行きます。
外に住んでいるがゆえに、琉球の社会や自然の破壊に心を痛めています。私は一人の経済学者として、なぜ、琉球が植民地的経済構造(低賃金、不安定、利益の日本本土への還流等)の問題を明らかにし、これを克服するための、内発的発展の道を考えていきたいと考えています。

琉球の植民地的経済の実態については私も知っています。その問題を解決するために、市場競争原理を琉球に導入し、カジノを誘致したのでは、さらに、植民地的経済の構造が深まるのではないかと私は思います。



もう疲れてきたので、また気が向いたら書きたいと思います。



松島

南国リンゴさんは真摯に琉球について考えているかただと推察いたします。

11月13日から15日まで、平安座島において、「ゆいまーるの集い」がありますので、ぜひともお越しください。直接、いろいろとお話ができれば幸いです。

またブログでもご意見お願いします。南国リンゴさんとの意見交換は、私にとっても勉強になります。ありがとうございます。

カジノをどう考えるのか(南国リンゴさんにこたえて)

南国リンゴさん、コメントありがとうございました。非常に貴重なご意見ですので、あえて、ブログを読んでいる方にご紹介して、議論が盛んになればと思いました。お気持ちを悪くされたら、すみません。このブログは基本的に公序良俗に反しない限り、公開にしたいと考えています。

現在のところ、コメントは南国リンゴだけでしたので、私の私見を述べさせていただきます。



あの~、さらし者にされたみたいです

沖縄は47都道府県中、所得は全国最下位ですよね。
ジニ係数は他府県に比べてずっと高い。
県民の平均所得が全国一低いのに加えて格差も最高という深刻な状態です。

県民総体の所得をあげないと学力も上がらないし、大学進学率も上がらない、考える人間が生まれてこない、良い人材が育たないと思うんです。
とにかく所得を上げていかなければ、何も解決できないのが現実だと思うんですよ。



松島
「日本復帰」以来、琉球の県民所得は現在まで最下位のままです。カジノを誘致したからといって解決できる問題ではなく、構造的な問題であると考えます。琉球から経済的利益の大半が日本本土に還流するシステムを変える必要があります。

他方で、所得、カネがすべてなのかという意見も私にはあります。那覇市等の都市部から離れ、先島諸島に行けば、所得がそれほどなくても、豊かな生活を送っている方が大勢います。琉球における所得に意味をもう一度考えてみる必要があると思います。

小生は『琉球の「自治」』において、そのことについて重点を置いて書きました。


カジノへの依存>

では、宝くじ・パチンコ・競馬・競艇・競輪は良くて、なぜカジノがいけないのでしょうか?



松島
琉球においてギャンブル依存症によって精神科に行き、家庭が崩壊したなどの話をよく聞きます。
ギャンブル一般をこのまま自由に、琉球のどこにも設置することが生活の上で、また観光においてもよいかどうかを考える必要があります。わたしはギャンブル一般を人生を狂わす大きな要因の一つと考えています。




子供の教育環境>
所得が低いところからは人材が育たないのです。親が高卒だと高卒の確率が高いのです(私の同級生を見渡しても、高卒の親(放任主義が多い)→高卒の子供orヤンキーを生み出す確率が高い。)
学歴と所得(教育環境)が比例することは周知の事実だと思います。悪循環スパイラルを断ち切るためにも、所得を上げるのが最優先だと思います。
貧しさを克服すること=大学進学率を上げる=教養・知識のある親を作る=教育理念のある親をつくる=子供の教育環境を整えるという発想なんです。



松島
私の両親や妻は高卒ですし、私の親戚、実家の隣近所も高卒がかなり多いのですが、人格的にも優れた人が多いというのが実感です。私が島々で出会った方にも、中卒、高卒の方も大勢いましたが、地域のことを我がことのように考え、行動している方がたくさんいました。

学歴ではなく、島や地域を自らの頭で考え、行動するかが、そのような人々がどれだけ多くいるかが、島の豊かさを左右すると思います。



カジノ施設にたむろする子供が増えるのではという人がいますが、警備員・治安部隊の投入でどうにでもなることだと思います。



松島
治安部隊というのは、自衛隊以外に、沖縄県が独自に軍隊をもつのでしょうか。もしそうなら、日本国と高度な交渉をしなければなりません。このような治安部隊が増えることで、琉球は監視社会になるのではないでしょうか。




経済破たん等>
私の考えは、既定の観光産業にカジノ産業を乗っけるという形なので、極めて合理的で効率の良い経済振興だと思います。今のような(消費単価の低い)観光産業でいくほうがずっと破綻に近いと思います。



松島
琉球観光の最大の「売り」は、「癒し」であり、修学旅行生、家族連れ、女性連れ等が大きな割合を占めていると思います。一攫千金をねらったカジノが導入されることで、琉球観光のイメージも大きな変更を迫られると考えます。

既存の観光業はむしろ自らのイメージを守るためにカジノを嫌がるのであり、むしろ、外部の巨大資本の進出を受け入れる形になるのでないでしょうか。

カジノ法案の国会通過については、かなり前から議論がありましたが、現在の民主党政権は子供、女性を重視しており、カジノ法案が通過する見込みが遠のいたと思いますが、いかが思いますか。

私が知っているテニアン島にカジノが誘致されましたが、その後、北マリアナ諸島政府の財政、島々の経済が発展したということはありません。


以上、私見をかきました。
南国リンゴさんの、率直なご意見に感謝します。

南国リンゴさんからの提案(カジノによる経済自立案)

おはようございます。大津もすっかり秋めいてきました。昨日は、自転車で琵琶湖沿いを20キロほど走ってきました。比良山系、田んぼの中で秋を感じてきました。

南国リンゴさんからのご提案です。

琉球を一国二制度にして、カジノを誘致して、税収減を増やすための、具体的なご提案だと思います。琉球ないでもカジノに関しては賛否両論あります。

子供の教育環境、カジノへの依存、経済破たん等について心配質人が多いようですが、南国リンゴさんはこのような反対論に対して、どのように答えますか。



こんばんは。私も琉球出身です(^^;)。
私は一国二制度が前提であれば、カジノ誘致には賛成です。ラスベガスのようにスロット1台1台に直接税をかければ、沖縄(行政)にとって大きな収益になります。

その収益は、セーフティーネット用に内部保留だってできますし、カジノ収益で治安部隊を設置(雇用の確保)することもでき、やり方次第では“経済と治安”を両立できると思うんですね。

一国二制度なら、法人税率も自由に設定でき、カジノ企業だけに環境・福祉税を課すこともできる。今までのようなオーソドックスな観光スタイル(のんびりドライブ、海水浴・ダイビング、観光施設巡り)では、一人あたりの消費単価に限界があると思います(のびしろがあまりない)。

単価が低いなら、常に数を追い求めることになりますし・・。130万人以上が住んでいる電車のない猫の額のような島にどれだけの観光客を呼び込みさばくことができるか?疑問に思います。交通網にも問題がでてくるかと・・。

 私はオーソドックスな観光スタイル+カジノ観光(ラスベガスのような手品ショー等の公演を含めて)を期待しています。

沖縄は芸能の島だから、空手ショー、エイサーショー、古典芸能ショー、雑技団のようなショービジネスも実現可能だと思ってます。

當銘明さんの琉球の自治に関する提言

沖縄島那覇在住、うるま市出身の當銘明さんから琉球の自治に関する提言が送られてきましたので、お伝えします。皆様からのご意見、ご感想などがあれば、どうぞおよせください。私の方から當銘さんに伝えます。




                            琉球の都市計画
                                             當銘明

先日は京都都市景観の新聞記事の件、読まして頂きました。有難うございました。今回は琉球のまちづくりについて述べさせて頂きます。

 琉球の土地面積を考えた場合、まちづくりにおける基本が二つあると思います。建物の高層化と電車の敷設ではないでしょうか。那覇の街を車で走っていると道路の狭さ、車の多さ、建物の低さを感じます。那覇に限らず都会ではコンパクトなまちづくりが良いと思います。

 はじめに道路ですが、国道58号線のような幹線道路は、車の専用車線が左右合計で6車線(片側3車線)、電車2車線、自転車2車線を想定し合計10車線は必要と思います。通りの両側には15階以上の建物を道路に沿って設置します。

建物は数百年間使用できることを想定し、基本構造の鉄筋や鉄骨が、その場で部分的に大胆に取り換え可能(20年~30年に1回)な構造であれば理想的です。1階と2階は主としてお店やレストランが入り、3階以上は広さにゆとりある住宅となります。

結論としまして、住居を沿道の高層住宅に集約することで、農業地区や工業地区、として研究地区の集約化も容易になります。そして通勤や通学も便利です。

 そして、郊外には菜園付きの小さな家をセカンドハウスとして一家に一戸割り当てます。かつてソ連邦の多くの市民(特にロシア市民)は、通常は都会のアパートに住み、休日には郊外の小さな別荘(ダーチャ)で野菜等や果物などを作り生活していました。

(社会主義時代のため住宅も割り当て制で家賃も低価格)ソ連崩壊の頃、都会のモスクワのスーパーにはヨーグルトしかないといわれる程の食糧不足でしたが、市民はダーチャでとれた野菜等を食していたと考えられます。

余った野菜等を自由市場で売っていたのです。食糧不足とはいえ深刻な飢餓問題には発展しなかったのはダーチャの存在が大きかったと思います。ソ連の住宅政策が市民の食糧確保にまで及んでいたことは注目に値すると思います。

ちなみに京都には歴史的な建造物も多いと思いますので、新聞の議論にありましたように建物の高さは低層のほうが良いと思います。できれば木造であれば理想的と思います。




大学院大学に関するコラム

琉球新報の2009年5月21日朝刊の論壇に、松島寛の大学院大学に関するコラムが掲載されましたので、お伝えします。




ノーベル賞級の研究者を集めた世界最高水準の学府といわれる「沖縄科学技術大学院大学」の早期開学に向けた法案を巡って、与野党の駆け引きが始まっている。当該大学院大学(大学院)の設置は、担当部局が文部科学省ではなく内閣府にあり、沖縄の振興開発を目的としている。

大学院は、「最先端の科学技術を研究する学府」として国家戦略を掲げながら、全国紙にほとんど掲載されず、認知度が低く、社会問題にもなっていない。

その背景としては①バイオテクノロジーを主な研究分野とする大学院の設置目的があいまい、②高度な研究が自立経済の振興につながるか不透明、③研究・教育の対象が不明確、④外国に依存し主体性欠如・・・などが挙げられる。沖縄は中小・零細企業が多く、大学院の中心的な研究課題となる生物生命システムを利用する技術は、地元企業にとって即効的な対策になり難い。

また、地場産業活性化の「さそい水」になり得るか疑問である。沖縄振興に極めて重要なプロジェクトに位置付けた研究機関として、地域に有効な研究がなぜ手薄なのか。

琉球弧の「サンゴ礁破壊」の実態とその機構、それを防ぎ守る研究をはじめ、地域性を生かした台風の研究、自然環境に関する研究や地場産業の活性化に結びつく研究開発など身近な問題に取り組む姿勢が見られない。

今計画されている「大学院」は、沖縄の自立に欠くことのできない「救世主」なのだろうか。

うがった見方をすれると、開学に向けた一連の動きは、どうも、国の安定した財政支援を頼りにした「世界有数の楽譜づくり」に見え、初期の目的を逸脱したノーベル賞受賞者輩出を目指す「名ばかり学術研究の府」に映るのである。ただの妄想に過ぎないのだろうか。

ところで、今国会の大学院関連法案の審議は、国の財政支援や大学法人の在り方が焦点となるが、この際、「大学院の設置目的の明確化」や「自立経済信仰の核となる大学院」をそれぞれ法案化し、大学院設置にかかわる不透明感を一掃すべきである。

大学院の設置形態については、将来、負担になるような問題点は、法案の段階ですべてなくさなければならない。国がどう財政支援できるか明確にしたうえで、しっかりした法案づくりを目指してほしい。

一方、大学院関係者の子弟教育のためのインターナショナルスクールの設置や周辺の施設整備についてどう取り組むのか、その動きにも目が離せない。行く先不透明感の強いご時世だが、明るい沖縄の未来像を期待し、党利党略抜きの議論を強く求めたい。


沖縄カジノ計画に対するコラム

本NPOの理事である松島寛が、2009年6月2日の沖縄タイムスの論壇におきまして、沖縄カジノ計画に反対する論考を出しましてので、ご紹介します。






深刻な世界経済の混乱に直面した。同時不況や景気低迷が続く中、県主導で経済団体の一部にも民設民営カジノを導入する動きがある。

カジノは、「観光資源になる」として、県カジノ・エンターテイメント検討委員会(県カジノ委員会)は今年3月、カジノを含む沖縄型統合リゾートのモデル3業と経済効果等を発表した。

それによると、膨大な経済波及効果(収益・約9000億円、雇用7万7000余)を試算しているが、予想されるリスクやロスが含まれていない。カジノは、賭博性が強く、暴力・売春・有害薬物・多重債務・自殺・犯罪の増加等、社会的コストやリスクが増大する。

それに、観光立県を掲げる沖縄のイメージダウンの原因となる。

今後も想定される世界的な不安定な経済情勢の影響で国内や外国旅行需要の落ち込みによる観光等入域者数の大幅な減少が懸念される。特に円高で、外国人向けのカジノ経営は難しくなる。

また、隣接するカジノ国(韓国・中国・台湾・・・)との過当競争や採算割れの経営難で、投資家や企業家は事業撤退を余儀なくされる。収益は、県内を還流するとは限らない。こんなにカジノは、不健全で不確実・不安定な要素が多いものである

県カジノ委員会は、施設開設地を明示せずに、6年後の開設を設定している。世界には、ラスベガス、モナコ、マカオなど「カジノ王国」があるが、日本は法規制が厳しく、設置は容易ではない。

「なんとか法をつくって設置を―」と願う自治体(東京、北海道)に、政府は「賭博性の強いカジノについては、現時点で特別法をつくるような環境にない」と、冷淡で、国の関心が、そもそもカジノに向かっていないとの指摘もある。

競馬・競輪・競艇がよくて、カジノを認めない政府の姿勢に、県は認識を深めてほしい。

“学校教育の充実・青少年の健全育成”を県政運営の柱としているが、これに逆行する「カジノ構想」はいかなるものか。その真意は何かーを明確にすべだ。

沖縄観光にカジノは欠かせない存在なのか。沖縄には観光資源が多く、優位性に富み、観光ポテンシャルも高いと評価されている。

世界経済の混迷で、先行き不透明な今こそ、長期的展望に立った観光ビジョンを持ち、他に類を見ない沖縄の豊かな自然、温暖な気候、固有の文化・歴史・芸能・食文化・異国情緒など、多様な観光資源を効果的に生かし、沖縄ブランドを確立することである。

沖縄の観光振興を阻害するような、不健全極まりない「カジノ導入」を容認することはできない。

森本さんの400年シンポについての論考

あまみ庵の森本さんから、雑誌『飛礫』に発表される400年シンポに関するご論考を送って下さいましたので、ご紹介いたします。



「しまぬ世(ゆ)元年へ!」―奄美諸島からー

▼ 二〇〇九年七月二十二日、奄美の近辺では二十一世紀最大の「皆既日食」がある。また、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で宇宙への扉を開いて四百年、今年は「世界天文年」という。
「日本国」で一六〇〇年といえば「関が原の戦い」だが、一六〇九年は?・・・即答できる「日本人」はあまりいない。「日本国」の歴史教科書は、「薩摩藩(徳川幕府=日本国)の奄美・琉球国の侵略(征服)」という史実にフタをしてきたからだ。

▼ 一六〇九年の旧暦三月七日、島津軍団三千人が琉球国内のサンゴ礁の島々を侵略した。火縄銃の火蓋が奄美大島北部の笠利町は津代(しちろ)の地で切られたのだ。「南島人」にはまさに天下分け目の戦いだ。その時の遺骨群が津代(しちろ)の裏山に今もひっそりと葬られている。

そこで、我々「三七(みな)の会」は一九九七年から毎年、鎮魂の寄合(ゆらい)をしめやかに重ねてきた。今年は四百年の節目に当たる。が、我々はことさらなコトはしない。一六〇九年を軸として日々永劫に「しまぬ世(ゆ)へ!」深化させていくのだ。

それでも、四月十二日の慰霊祭には内外から百人近くが手弁当で駆けつけた。いつもは二十人前後だ。旧笠利町の朝山毅町長も初めて参列し、行政の無策を詫び、今後の対応を約束した。鎮魂のあと、笠利町の青壮年たちが親(うや)先祖(ふじ)愛(かな)したちへ「八月踊り」を奉納した。手(てぃ)花部(ーぶ)公民館の「津代(しちろ)で一六〇九年を語る会」では熱い議論が飛び交った。

すべて予期せぬ画期的な成果だった。一六〇九年を軸にすることで、今後は笠利町の島人(しまんちゅ)の一人ひとりが「しまぬ世(ゆ)創り」の自治的主体になればいい。我々が創る歴史は未来からやってくる。

▼ 五月二日は、徳之島で「薩摩藩奄美琉球侵攻四百年記念事業・未来への道しるべ」(事業費百万円)があった。行政主導による、鹿児島(原口泉)、奄美大島(弓削政巳)、徳之島(幸田勝弘)、沖縄島(金城正篤、高良倉吉)から研究者を迎えてのシンポジウムだ。

 吾(わん)はこの手の歴史解釈的「ガス抜き事業」には興味がない。一六〇九年を軸として、現在の徳之島人(ちゅ)が鹿児島県・日本国・琉球弧との関係にどう向き合い、切り結んでいくのか、それこそが問われるべきだからだ。

 それでも、急きょ、船で参加したのにはわけがあった。
沖縄大学地域研究所の緒方修所長が昨年十一月、吾(わん)を訪ねてきた。二〇〇九年の催しを「三七(みな)の会」と共催でやりたい。ついては、井沢元彦(「新しい歴史教科書をつくる会」メンバー)に基調講演を頼んだ、という。当然ながら大喧嘩になり、破談。

 その後、彼は徳之島町に琉球国の尚家と薩摩藩の島津家の当主二人を招いて握手させようという、これまたトンデモ企画を持ちこんだのだ。しかし、尚家が応諾せず、島津家の当主だけお忍びで参加するらしい。

 我々は、抗議の申入れを徳之島町当局へ送った。その模様を南日本新聞(鹿児島)の「記者の目」(五月十九日付)から引用する。
  
   シンポは「未来志向の新たな関係を築こう」との意見が相次ぎ、盛況のうちに幕を閉じた。その一方でスタッフらは気をもんでいたという。当主のあいさつ中止を求めるメールなどが寄せられていたからだ。
   メールの趣旨は「民衆の歴史を旧支配者のあいさつで幕引きされては困る」というもの。反対者の一人は「藩政時代の黒砂糖収奪の構造は今も変わっていない。四百年の歴史は民衆側から総括すべきだ」と主張する。
   わだかまりやしこりはない方がいいが、四百年の歴史認識は一筋縄ではいかない。県の施策や方向性に反対の立場から見れば、「薩摩(鹿児島)はまた奄美を苦しめている」と考えるのも分かる。島人の無意識の声を含め、多様な意見に耳を澄ましたい。

 吾(わん)は、当日の交流会場で島津修久氏にサトウキビ八本(奄美の有人八島分)の束と、吾(わん)からのメッセージ「しまぬ世へ!」と、『しまぬゆ』(義富弘著)、『奄美自立論』(喜山荘一著)を手渡した。「これらを熟読玩味して、出なおして来い!」という我々からのお土産だ。

▼ 五月十六日は、沖永良部島に上陸した。
「琉球侵略四百年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~四百年
(一六〇九~二〇〇九)を考える~」(事業費、七十万円)。

吾(わん)は、「ゆいまーる琉球の自治イン沖永良部島」に参加して、奄美大島からの報告をした。交流会のあと「薩摩(大和)の奄美・沖縄植民地支配四百年を問う訴訟」の可能性などについて懇談。実は、これが沖永良部島行きの真の目的だった。松島泰勝さん、竹尾茂樹さんたち、また上村英明さんからは適切なアドバイス(メール)をいただいた。今後、可能性を探っていきたい。

 翌十七日はシンポジウム。パネラーは、富山和行(沖縄島)、高橋孝代(沖永良部島)、弓削政巳(奄美大島)、原口泉(鹿児島)。翌日の南海日日新聞(奄美)には、「歴史観の再構築を」という大見出しが出ていたが、いったい、誰がどのようにして再構築するというのか?!

▼ 今年は沖縄・鹿児島・東京などでも一六〇九年をめぐる催しゴトが続く。嬉
しい限りだ。世紀の皆既日食がある今年を仮に「しまぬ世(ゆ)元年」として、次なる「しまぬ世(ゆ)連合」への新しい扉は、我々一人ひとりが開いて行くしかない。ガリレイのように。


「三七(みな)の会」事務局・森本眞一郎

西表島船浮開発反対

沖縄タイムスの2008年11月3日付論壇に警視された松島寛のコラムを以下に転載いたします。

父は、このコラムを昨年西表島祖納で行われた、ゆいまーるの集でも参加者に配布し、自らの主張を述べました。





「沖縄ブーム」にのって、今県内各地は、土地買収やリゾート開発が大変な勢いである。

石垣島では、観光・移住ブームによる開発や建設ラッシュに端を発した「建築物の形状」と「島の景観」をめぐるリゾートマンション建築確認差し止め訴訟、沖縄本島北部・本部町では、事業者の資金難で大量の解雇者を出した瀬底ビーチリゾートホテル、また竹富島では、公民館(住民)の同意を得ないまま、島の東部に別荘型リゾート施設の県絵sつ計画を進める動きがあるなど、開発をめぐる新たな問題が起きている。

この最中、西表島東部の豊原に続いて西部の船浮でも土地の大部分が、本土企業に買収され、またも大規模観光開発が予想される動きがある。

西表島西部奥地の船浮は、いまだに手つかずの自然が数多く残る島の中でも、交通手段は船のみで「人の住む最後の秘境」などと呼ばれてきた。

この船浮の住民(25世帯42人)に最近、土地の買い占めが発覚、“突如襲った開発の津波”に動揺している。

ところで、大規模開発で西表島は発展するのだろうか。観光収入の多くは本土へ還流し、県(島)内で循環しない「ザル経済」が指摘される中、果たして地元にメリットはあるのか。

日本復帰のころ、西表西部の宇奈利埼で本土企業が「太陽の村」と称するリゾートを建設したが、経営破たんし施設の残骸を放置して撤退した。

また、数年前、島西部の浦内川下流域に、今回船浮の土地を買い占めた同じ企業が、大型リゾートを建設した。当初期待されたような経済効果はなく、地元の雇用効果も少ない。

53年前昔、私が西表島測候所(在、祖納)に勤務したころは、自然界の生態系が島を覆い尽くし、緑滴る山々・のどかな景観は、自然の美を感じさせ、島全体が「自然の宝庫」であった。それが今、“開発の嵐”が襲い、隔世の感がある。

西表島の大規模開発は、西表島だけの問題ではなく、沖縄全体の経済開発のあり方をも問うている。今後の成り行きに注目したい。

今回の広範な土地買収に絡んだ開発問題に直面した船浮には、島の将来を外部資本にゆだねるのか、住民の自治によって島を守り、自らの手で未来を切り開くのかが強く問われている。

西表島の最大の魅力は「大自然」である。自然と文化遺産をしっかり守りながら、人間と動物と自然が共存できるような「観光開発のあり方」を、地域住民主導で、行政・事業者・専門家・有識者・観光客を巻き込み真剣に、議論を深めていくことが、島の発展につながるのではないだろうか。

与那国島測候所廃止への反対

2008年7月26日の琉球新報の論壇に、本NPOの理事であり、私の父である松島寛が次のようなコラムを書きましたので、転載いたします。

私も、家族とともに幼稚園から小学2年まで与那国島に住んでいました。毎日、海で泳ぎ、川であそび、山で虫や植物を追い回して過ごしていました。毎日泳いでいたために、日焼けの皮がむけなくて、今でも私の右肩から腕にかけて「日焼けのアザ」が残っています。

国は全国一律の合理化、効率化を推し進めており、「離島」にもその波が及んでいます。島は国から見放され、ますます過疎化が進んでいくのではないでしょうか。特に台風が多い島において気象台が存在することで、住民の不安も大きく和らぐという精神的な効用も大きいという側面があります。

過疎化が進み住民を窮地に追い込んで、自衛隊誘致、大規模開発などを島の住民が求めるのを待っているかのようです。

住民が必要とする最低限の公共サービスを提供するのを止めようとしている日本国は、国家としての機能を捨て、すべて市場の論理で人でも島でも淘汰させようとしているかのようです。その結果、派遣切りが横行し、失業者が巷にあふれ、地域の過疎化ががさらに深刻になろうとしています。

父親も自らが生きてきた島への思いを胸にして次のような文章を書きました。



松島寛


離島のさらに離島の暮らしを見て回り、地域住民との対話を離島政策に生かそうと、岸田沖縄担当相は波照間島と南北大東島、増田総務相は八重山地方を訪れ、「対話集会」を地方首長や住民代表と開き、重要課題に取り組む意欲を見せた。

ところが一方で、政府は離島振興策に逆行する施策を進めている。今年10月、国の行政改革(人員削減等)のあおりで「与那国島測候所」が廃止されることになった。

私は同所で勤務した経験があり、非常に残念でいたたまれない思いでいる。

創立以来50余年、国境の防災拠点として地方気象台並みの役割を担ってきた。大海で孤立する与那国島まで全国一律の基準の機械的な適用は、島を最西端の「国境の島」から「辺境の島」へ固定化し、島を衰退させることになる。

これは陸地と海域に在る気象官署の環境の違いを無視したやり方だ。沖縄は島嶼県、言い換えると海洋県である。

中でも広範な海域に位置する与那国島には、離島地域として固有の立地を活用するにふさわしい権限を与えるなど、全国一律の枠にはめずに、特別措置にしてほしい。

「与那国島(渡難島)」は、黒潮のまっただ中にあり、太平洋と東シナ海を分断し、台湾とは一衣帯水の近距離にある。

台湾を南北に縦断する4000メートル級の険しい台湾山脈に相対し、台湾海峡の背後に広大な中国大陸が控え、台湾と中国に隣接する国境の島である。

自然環境は極めて厳しく、台湾の地形や黒潮の影響を受け、「台風と副低気圧(台風に伴う小さな低気圧)の共生」「台風の停滞・分裂」「迷走台風」・・・と気象に急激な変化をもたらし、また、東シナ海低気圧(俗に台湾坊主)の発生域ともなっている。

さらに、石垣島近海から与那国島近海・台湾東方海域にかけては、県内でも地震活動の活発な海域である。過去に阪神・淡路地震や岩手・宮城内陸地震に匹敵する海底地震も発生している。

このような厳しい環境で自然災害から住民の生命および財産を守る大きな力となってきたのが、与那国島測候所である。

その測候所を廃止する理由として「測候所業務の地方気象台(最寄りの)への集約化」が考えられるが、海を隔てた気象情報の遠隔サービスでは“臨機応変”“適時適切”さに欠け、離島住民への気象サービスの低下、情報格差が生じる。

災害の予防と軽減、災害の拡大防止には、現地における常時監視体制・情報提供が不可欠である。

間近い「測候所閉鎖」で、与那国町の過疎化はいっそう加速し、地域防災体制の弱体化は必至だ。

与那国町は財政難で一時は合併を考えたが、結局、自力で財政再建を図ることになり、「国境交流特区」をはじめ多くの再生策を含む「与那国・自立へのビジョン」を掲げ、“自治・自立の道”を目指している。

政府は、離島の活性化に向け住民が安全・安心に暮らせるように、測候所の与那国島からの撤退を見直し、「測候所の存続」を真剣に考えてほしい。国が“離島のさらに離島”を見捨てることは許されない行為である。

与那国島を日本国土の「辺境の地」にしてはならない。

沖縄道州制案の問題性

200811月17日の琉球新報に、本NPO法人の理事であり、私の父・松島寛が「道州制」に関するコラムを掲載しましたので、本人の同意を得て転載いたします。

沖縄県の「道州制」は単独、特例型のものを目指しています。日本の市場経済化、国家による管理をさらに強化するおそれのある道州制をなぜ、琉球がすすんで導入しようとするのか。琉球は日本とは歴史、文化、自然が大きくことなり、他の道州と同じ政治的地位ではありえないのです。

単独州を維持するために基地税の提案も出てきました。道州制が琉球に永続的に基地を押し付けるおそれもでてきました。
沖縄単独道州制案は、日本の離島防衛戦略とも関連し、一括補助金を求める「国頼みの自立化」であると考えます。


                            

松 島  寛 


明治時代の琉球処分を思わせるような世代わりとなる「道州制」を巡る論議に、最近関心が高まってきた。

この間に、「沖縄を特例型の単独州に」と提言した沖縄道州制懇話会、「道州制区割案に沖縄単独州を設定」した自民党道州制推進本部と政府・地方制度調査会、

それに加え最近になって道州制担当相の私的懇談会の道州制ビジョン懇談会(政府・道州ビジョン懇)座長が、これまでの持論(沖縄の九州編入)を撤回し、「沖縄は単独州でも良い、財源に基地税新設」を提唱するなど、道州制に関する見解が公表されている。

ここで気になるのは、前述の政府系三者が申合せたかのようにそろい踏みで、早くも沖縄の単独州実現に向けた動きを見せ、何をどう進めるのかという道州制度の本質論より道州制区割が先走っていること。

また「基地税」には、単独州の財源に充てることで基地を沖縄に永続的に封じ込めようとする意図が見えることだ。

沖縄に過度に集中する基地負担の代償として現在、基地再編・基地周辺対策事業・振興策等に交付金や補助金の形で基地関係自治体に投入されている。

これらの公的支出金(税金)に加えて、新たに「基地税」を導入・交付することは、沖縄の基地に対して国民に二度課税することにならないのか。

 今後、予想される消費税率引き上げや環境税導入の動きがある中、「基地税」導入は増税を一層強いることになり、国民の理解を得られないと思う。

更に「基地税」は、「基地の固定化」や「経済振興と基地負担をパックにしたリンケージ策の強化」に波及し、基地の安定的運営を図る戦略に他ならない。

政府道州ビジョン懇のいう「基地税」は、政府の国策の実態を分かりやすい形で示している。

 今沖縄は、「単独州」へと志向しているように見えるが、まだ県民の総意とはなっていない。民意の目安となる県議会の道州制に向けた動きは見られず、未だに本格的な議論をしていない状況だ。

政府関係筋は、沖縄の単独州に積極的だが、仮に単独州へ移行するにしても、管理・掌握された政府主導ではなく、あくまでも県民が主導権を握った単独州でなければならない。

広域行政区に再編される道州制は、私達の暮らしに深く係るので、将来に悔いを残さないよう道州制論議に積極的に参加し、「国と地方のあり方」「単独州移行とメリット」「単独州下の自治・自立の進め方」など、全県民的な議論を巻き起こしていくことが何よりも必要である。        

奄美諸島の復帰饌年に/重要な近現代史の視点

南日本新聞に前利さんの時論「奄美諸島の復帰饌年に/重要な近現代史の視点」が掲載されました。前利さんのご許可をいただき、このブログに転載させていただきます。




知名町職員 前利 潔
奄美諸島に対する施政権が米国から日本国へ返還されてから、二十五日で五十五年を迎えようとしている。

 復帰運動において、重要な意味をもつ二つの歴史的事件がある。来年で四百年になる薩摩藩による琉球侵攻と、百三十年を迎える明治政府による琉球処分である。

 奄美大島日本復帰協議会の結成(一九五一年二月)とともに取り組まれた署名運動では、十四歳以上の奄美諸島住民の骼%が署名したという。その署名録を添えて連合国軍最高司令部に提出された「奄美大島日本復帰についての陳情嘆願書」は、この二つの歴史的事件をとりあげて、奄美諸島が「古来からの日本領土」であったことを「論証」している。

 琉球侵攻によって琉球王国から切り離された奄美諸島は、一六一一年から薩摩藩の直轄地となった。琉球処分とは琉球王国の日本国への併合である。それは、清国との外交問題に発展した。

 日清間の交渉は、分島改約(琉球二分割)案として妥結した。宮古・八重山諸島は清国帰属、沖縄諸島以北は日本国帰属という内容である。しかし、分島改約案は清国政府が調印しなかったことによって、破棄となった。

予備交渉の場では、清国政府から琉球三分割案が提案されていた。宮古・八重山諸島は清国帰属、沖縄本島には琉球王国復活、奄美諸島は日本国帰属という内容であった。この案は明治政府の拒絶によって、立ち消えとなった。いずれの分割案でも、奄美諸島は日本国帰属であった。

 薩摩藩の直轄地、分島改約案における日本国帰属が、「古来からの日本領土」の証明であった。奄美側がこのような論理を持ち出した背景には、米国が一九五〇年十月に発表した講和七原則に、「日本は(中略)琉球諸島及び小笠原諸島を米国の信託統治下におくことに同意しなければならない」という条項があったからだ。

 講和会議に向けて、「琉球諸島」に「奄美群島」は含まれていないことを訴えるねらいがあった。それは〈琉球(沖縄)〉を排除することによって、奄美諸島の住民が〈日本民族〉であることを証明することでもあった。

奄美諸島の日本返還は、国際政治の舞台からみれば、「道具」であった。

 米国にとっては戦略的に重要な沖縄の保有を前提に、それほど重要ではない奄美諸島は返還するという、対ソ戦略上の道具であった。

 中華民国(台湾政府)は、「奄美大島も沖縄ももと中国領」という理由から、奄美諸島の返還に反対を表明した(五三年十一月)。その主張には無理があることを承知のうえで、戦略的観点から琉球列島の領有を主張したといわれている。

 当時の日本国の首相、吉田茂にとっても道具であった。バカヤロー解散(五三年三月)で窮地に陥っていた吉田は、総選挙を有利に運ぶために、米国政府に奄美諸島の返還を強く要請した。

駐日米大使館側も吉田の思惑に理解を示していたが、米国国家安全保障会議の場で奄美諸島の返還が決定したのは、総選挙後の六月のことであった。

 今年は、帝国議会の一部議員から、沖縄を台湾総督府の直轄に編入して「南洋道」を新設するという構想が提案されてから、百年でもあった。

同構想には元沖縄県知事、奈良原繁貴族院議員が深くかかわっていた。奈良原は、鹿児島県人である。「中央政府が持て余している沖縄県を台湾総督府の管轄に移して、内地の負担を軽く」したいという考えであった。

 〈皇国日本〉への同化を進めていた沖縄側は、猛反発した。沖縄側が持ち出した論理は、「台湾は異民族、沖縄は日本民族」というものであった。

「南洋道」構想には奄美諸島も含まれていた、という指摘もある。

 奄美諸島の歴史は、国家の思惑に翻弄(ほんろう)されてきた歴史でもある。自己満足的な復帰運動史ではなく、例えば占領史として近現代史のなかに位置づけて研究する時期に来ているのではないか。

[略歴]
 まえとし・きよし氏 1960年、知名町生まれ。琉球大学法文学部卒。日本島嶼学会会員。法政大学沖縄文化研究所国内研究員。主な論考に「〈無国籍〉地帯、奄美諸島」(共著『反復帰と反国家』所収)。

<無国籍>地帯、奄美諸島 5

4.近代における<無国籍>
(1)一字姓と<国籍>

・本土への進学、入営(徴兵)の場で、奄美諸島独特の一字姓ゆえに、<日本国籍>が疑われた。
・関東大震災のときに朝鮮人や中国人にまちがわれたことから、<日本>的な二字姓に改姓が進む。

・米国占領下では日本国籍法が適用されず、改姓の手続きも簡単であったことから、さらに改姓が進む。

(2)カトリックの招へい ※現在、奄美大島におけるカトリック信者は、人口の約5%だといわれている。
・フェリエ神父、布教開始(1891年) → 信者4,057人(1923年)、人口53,495人(25年)の7.6%。

・「岡程良が、島の新しい精神的支柱を日本本土の伝統的なものに求めず、西洋の宗教に期待の手を 伸ばしたことは、彼が若いころ儒学をきわめた人であるだけに、島の人間としてのヤマトにたいする深い 絶望感を示している」「薩摩藩いらいのあくどい収奪と搾取の、まだ生々しい記憶が、本土のすべてのものにたいする不信と反感をつちかった、という背景もある」(小坂井澄著『「悲しみのマリア』の島)

・「佐賀に左遷させられる前、程良は、島の振興にはまず、万民は平等であるという西洋思想が必要と考え、島の有志らとともに鹿児島県本土のキリスト教各派に奄美での布教を要請する」「程良は、宗教としてではなく思想としてキリスト教に期待を寄せていたのだろう」(宮下正昭著『聖堂の日の丸』)

・4年生のミッション系スクール大島高等女学校開校(24年4月) 

・古仁屋に陸軍要塞司令部開設(23年) → 天皇の来島(27年) → カトリック排撃運動(「非国民」)

・「民謡の如きもあまりに退廃的亡国的な声調に流れるようなものは貰いたい」(昭和天皇に拝謁した東京在住の喜界島出身実業家)

(3)アナーキストによる大杉栄追悼記念碑の建立(24年) ← 要塞司令部のある大島南部の海岸
・奄美は保守的な鹿児島県のなかにあって、社会主義、共産主義思想の活動が比較的活発な所だった。

 藩政時代の薩摩藩による搾取、明治維新後も続いた差別的な処遇、そして貧困、離島という地勢的な問題 も影響したのだろう。特にアナーキストと称されたグループは、主に奄美大島第二の町、古仁屋にいた。

 前述したように大正12(1923年)6月の第一次共産主義者一斉検挙の時、鹿児島県内で唯一当局のリストに載っていたのは、古仁屋の武田信良。大杉栄虐殺事件の一周忌に古仁屋近くの蘇刈海岸に記念碑を立て問題を起こしたのも武田らのグループだった。(宮下)

・古仁屋のアナーキストは敗戦後の「無政府」状態下 → 旧日本軍人に対する人民裁判

Ⅳ ヤポネシア論の受容の仕方
1.沖縄と奄美におけるヤポネシア論の受容の仕方の違い
 沖縄側はヤポネシア論を、日本という国家に包摂されることを拒否する思想として受容したのに対し、奄美側はヤポネシアと視野を広げることによってはじめて、「奄美」を日本という国家に正当に包摂することができる思想として受容した。

2.足場としての奄美諸島~<奄美>から<琉球>へ~
※「琉球弧の島々が、日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であった」(島尾敏雄「奄美―日本の南島」)

(1)カトリック ※安齋伸著『南島におけるキリスト教の受容』(第一書房、1984年)
・47年9月、カプチン会(ミシガン州)の神父2人が、廃墟の那覇に上陸 → 確認できた信徒は母子2人

・10日後、カトリックの地盤がある奄美大島(名瀬)へ → 信徒、軍政府、群島政府らが出迎え(200名)

・沖縄宣教の準備(奄美大島) → 再開(49年) → 多くの奄美大島出身の青年信徒が沖縄各地へ
・沖縄全土を管轄する那覇教区の要職、女子修道会には奄美大島出身者が多かった。

(2)非合法共産党 ※森宣雄「越境の前衛、林義巳と『復帰運動の歴史』」、国場幸太郎「『沖縄非合法共産党文書』研究案内ノート」

・奄美共産党(47年結成)の林義巳(笠利村出身)、琉球人民党の中央常任委員として渡琉(52年3月)。

・林には沖縄に非合法共産党を建設する任務が与えられていた。 ※瀬長亀次郎は反対

・林ら奄美グループが中心となって、戦後沖縄初の大規模労働争議、日本道路社ストを決行(52年6月)。
・ストの成功によって、国場幸太郎と瀬長亀次郎が会談、非合法沖縄共産党の創設に合意。

・「奄美共産党は、結成の当初から、(中略)多分に日本共産党から影響を受けていた」(国場)
・沖縄人民党は「日本共産党から影響を受ける関係にはなく、(中略)独自の道を歩いていた」(国場)

(3)太宰府の出先機関(喜界島の城久遺跡群) ※千年前の奄美諸島
・城久遺跡の発掘調査から、同島に太宰府の「出先機関」があった可能性が出てきた。

・ヤコウガイの大量出土遺跡(奄美大島)、琉球弧全域を交易圏としたカムィヤキ古窯跡群(徳之島)。

・日本の古代、中世国家の強い影響下にあった奄美諸島北部 → 琉球弧のグスク社会形成へ刺激

おわりに~「周縁」から「境界」へ~
(1)高梨修著『ヤコウガイの考古学』(05年) ※「奄美諸島史のダイナミズム」(高梨)

・琉球弧のこれまでの歴史学研究は、琉球王国論に収斂される潮流が支配的だった。
・奄美諸島は、二重構造の国家境界領域 → 琉球からも大和からも周辺地域として位置づけられてきた。

・琉球王国が奄美諸島を領域化する以前、日本中世国家の領域は奄美諸島まで押しひろげられた。

・「南方物産交易の拠点としての奄美諸島」「喜界島・奄美大島東海岸における政治的勢力の存在」

・国家周辺地域は、静態としてとらえるならば「辺境(マージナル)」という理解になるが、動態としてとらえる ならば「境界(フロンティア)」という理解も生まれてくる。

(2)高橋孝代著『境界性の人類学』(06年) ※「(沖永良部島の)ダイナミックな歴史」(高橋)
・「日本」「鹿児島」「奄美」「沖縄」の周縁に位置づけられてきた沖永良部島 → 中心に据える

・沖永良部島は、「日本/沖縄」「鹿児島/沖縄」「奄美/沖縄」の境界を創り出している。
・「日本/沖縄」の境界 → 「日本(ヤマト)/沖縄(ウチナー)」のエスニシティの境界

・「鹿児島/沖縄」の境界 → 「薩摩/琉球」の権力のせめぎあいによる政治の境界
・「奄美/沖縄」の境界 → 奄美諸島内部の文化の象徴的境界

・沖永良部島民のアイデンティティの複雑性、混淆性 → 「適応戦略」の所産
・沖永良部島民のアイデンティティ研究は、グローバル化に伴い種々の境界が薄れていく今日、世界各地 にある文化的融合点(境界地域)の文化体系の新たな枠組みを提示できるという、普遍性をもつ。

<無国籍>地帯、奄美諸島 4

(3)背景としての近世
①進貢貿易を通して「中国化」を進めた沖縄

・進貢貿易の中心的な担い手 → 華人の末裔である「久米村人」 ※王府の進貢貿易振興策
・国王や世子への進講 : 近世初期(薩摩から渡琉した僧や儒者) → 後期(久米村人)

・官生制度 → 中国の最高学府である国子監への国費留学生 ※自決した林世功(亡命琉球人)
・琉球館があった福州への自費留学 → 王府の許可が必要(王府の官僚予備軍)

②薩摩支配を通して「ヤマト化」を進めた奄美諸島
・近世初期(琉球時代の統治体制を温存) → 「置目之条々」(1623年) → 琉球との関係を切断
・沖縄系出自の島役人から薩摩系島役人へ権力移動 ※藩役人と島の女性との間にできた子孫

・遠島人(政治犯) → 生計のためにも、島役人層の子弟たちに学問を教えた ※名越左源太
・大島 → 藩政期間に来島した藩役人(約千人)、遠島人(1852年、346人/人口は約4万人)

・優秀な子弟は鹿児島留学 ※「富民の子弟等は12歳より鹿児島に至り学ぶ」(1873年、大蔵省報告)

③沖永良部島における権力移動 ※高橋孝代著『境界性の人類学』、『和泊町誌』歴史編
・琉球時代の統治体制の維持 → 沖永良部島代官所設置(1690年) → 島内権力構造の変化(与人)

・与人: 1690年から1790年(沖縄系7人、薩摩系9人) → 以降、幕末まで(沖縄系2人、薩摩系11人)

・藩政時代の藩役人544人(代官93人) ※大久保利通の父も附役として二度、来島(島に子孫を残す)

・遠島人: 幕末までの一世紀(1772~1869年)に929人 → 代表格が西郷隆盛(1862年)
・初代(73年)の戸長である土持正照 → 幼い頃、鹿児島の父親のもと(土持家)で郷中教育を受ける

④近世における<無国籍>
・冊封使の来琉 → 奄美諸島からも「貢物」を上納(1866年まで) ※進貢貿易には関与せず

・奄美諸島独特の一字姓 → 東アジアの冊封体制下における対外的カムフラージュ(弓削政己)
・沖永良部島民が朝鮮に漂着(1790年) → 「琉球国中山王」の支配下の者、<琉球人>と主張

・沖永良部島民が薩摩の船で寧波に漂着(1773年) → 月代をさせられ、<薩摩人>として対応

3.琉球処分と奄美諸島
 広義の琉球処分は一般的には、1872年9月の琉球藩設置に始まり、79年3月の沖縄県設置を経て、80年の日清間における分島改約案の妥結・破棄、という過程を指している。

(1)琉球処分と鹿児島
①鹿児島藩から明治政府へ提出「琉球管轄之沿革調書」(71年7月) ※廃藩置県の2日前の日付
・政府は廃藩置県によって、ひとまず琉球を鹿児島県の管轄下においた。

・岩倉使節団の欧米への出発(71年11月) → 重要調査事項の一つに「琉球」問題

②鹿児島県の対応(<琉球>に対する既得権益の維持)
・71年8月、大久保と西郷は協議の上、「善後ノ処置ヲ講セシムル」ために、西郷従道らを帰藩させる。

・71年12月、西郷、士族救済のために砂糖独占販売の商社設立に同意(桂久武への手紙)
・72年正月、鹿児島県から琉球藩へ「伝事」→「幸鹿児島之管轄ニ属シ、其段ハ御安心之事ニ候」

・72年前半、大蔵省への伺「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」

③明治政府の対応(琉球と鹿児島県の関係を切断)
・72年9月、琉球王国を「琉球藩」とする(明治政府の直轄) → 琉球王府の外交権は外務省の管轄。

・同9月、伊地知貞馨(鹿児島県の「伝事」)、外務省官員として琉球藩勤務を命じられる。
・同年11月、琉球の租税納入先、鹿児島県から大蔵省租税寮へ変更される。

・73年3月、琉球藩に外務省出張所開設、鹿児島の琉球在藩奉行も外務省出張所勤務→在藩奉行消滅

(2)「大島県」設置構想 ※弓削政己「明治維新と諸制度」(『瀬戸内町誌』歴史編、2007年)
①大蔵省と鹿児島県の対立

・租税の納入方法 → 大蔵省は砂糖現物納、鹿児島県は金納
・士族の救済方法の一方法としての「大島商社」設置問題

②大蔵省の方針
・「当年限り従前之通取計」(72年5月) → 当年に限り、旧藩時代の独占販売体制を認めた
・砂糖の自由売買を布達(73年3月) → 独占販売体制(大島商社)方式の否定

・鹿児島県は、大島商社方式を継続         ※大蔵省による奄美諸島調査(73年から9ヶ月間)

③大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ稟申「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ」(74年9月)
・旧藩時代に民力が「傷害」 → 大蔵省管轄下で砂糖増産、輸入砂糖減少 → 「莫大之国益ヲ増加」

・内務卿大久保の「裁可」が「否」であったと考えられ、「大島県」設置は実現しなかった。
・大島に大支庁、他の四島に支庁を置く(75年6月) ← それまで旧藩時代の統治体制のままであった。

④砂糖自由売買運動(勝手世騒動) ※「大島商社」の解体を目的とした運動
・丸田南里、密航先の英国、上海から帰島(75年初頭) → 組織(主体)的な砂糖自由売買運動を展開

・征韓論争に敗れた西郷、帰県(73年10月) → 「私学校」創立、県下に強い影響力を行使
・丸田南里ら3名、県庁に嘆願(76年4月) → 「棒打の刑に処」せられる → 大島へ、調査団派遣

・55名の陳情団、上鹿(77年2月)→西南戦争(同月)→従軍(35名)→生存者の大半、帰島中に難破

・西南戦争終結後、79年分から砂糖自由売買が認められた(78年7月)。 ※琉球処分(79年3月)

(3)琉球王府、清国政府にとっての奄美諸島
①奄美諸島の返還要求(琉球王府)
・琉球藩設置の際(72年9月)、王府側は「道之島(奄美諸島)」の返還を政府に要求。

・薩摩によって「押領」された「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷属」である。

・副島外務卿は、「宜しく琉球の為めに処置すべし」と空約束。
・琉球側には王国自身が存亡の危機という意識はなく、単に薩摩から解放されたという認識であった。

②琉球三分割案(清国政府)
・琉球処分(79年3月)は、日清間の外交問題に発展 → 前米国大統領グラントによる調停(79年8月)

・琉球二分割案(沖縄諸島以北は日本帰属、先島諸島は清国帰属)で妥結(80年10月) → 破棄
 ※妥結に抗議して、林世功(亡命琉球人、最後の官生)、清国で自決(80年11月)

・李鴻章が予備交渉の場で、日本政府側に琉球三分割案を提案し、拒否されていた(80年4月)。
 ※「北島(奄美諸島)」は日本帰属、「中島(沖縄諸島)」には王国復活、「南島(先島諸島)」は清国帰属

 ※琉球三分割案は復帰運動の嘆願書で、奄美諸島の「日本帰属」を正当化する論拠として使われる。

<無国籍>地帯、奄美諸島 3

Ⅱ 国民国家への包摂
1.<日本人>という自己認識

(1)米国海軍軍政府 → 「北部琉球調査隊」を派遣(45年11月) 
・調査隊は覚書で「調査隊全員の一致した結論」として、軍政府の設置に反対を表明。

・大島郡の住民は、あらゆる点で自らを日本人とみなしている。沖縄においてみられるような「沖縄人」対「日本人」という感情は全くない(覚書)。

(2)国場幸太郎(非合法沖縄共産党創設メンバー)からみた奄美共産党(47年4月創設)

・奄美共産党の行き方の根底には、敗戦直後の早くから、「祖国」日本との再結合を希求していた奄美 民衆のナショナリズム(民族主義)がある。

・敗戦後の沖縄民衆には、「日本国民としての民族主義」が崩壊していた。

(3)94年下半期の南日本新聞コラム「南点」(前利潔) → 「奄美人」という言葉に教師から抗議される

・「奄美人・沖縄人」「朝鮮人・半島人」「島人」等が差別用語であった歴史的事実(現教師、M/当時)。

・抗議した元教師、現教師にとって<日本人>になることが、差別からの解放であった。

2.国民国家への包摂過程
(1)地租改正、徴兵制度、参政権

①地租改正
・地租改正条例(73年7月) → 地租改正事業事務局設置(75年) → 改正作業終了(80年)

・<奄美>地租改正再着手(79年4月頃) → 終了(81年7月) ※西南戦争の影響(県、79年1月)

・<沖縄>土地整理事業実施(99年) → 終了(1903年) ※琉球処分(79年3月)→旧慣温存政策

②徴兵制度 → 徴兵令発布(73年1月)

・<奄美>徴兵検査、始まる(79年)  ・<沖縄>徴兵制の施行(98年)

③参政権
・明治憲法と衆議院議員選挙法公布(89年2月)、第一回衆議院議員選挙(90年7月)
・<奄美>第一回衆議院議員選挙、第七区(大島郡)から基俊良(奄美大島)当選。

・<沖縄>衆議院議員選挙法施行(1912年) ※納税制度が未確立(土地整理事業終了、1903年)

(2)学校教育  ※「学制」制定(72年)、教育令(79年)、小学校令(86年)
①沖縄県 人口31万人(79年)
・琉球処分(79年3月) → 会話伝習所設置(80年2月) → 師範学校として教員養成開始(80年6月)

・小学校18校開設(80年) → 53校(82年) ・教員数108人(85年) 

・生徒数 1,006人(81年)、1,854人(84年)、8,817人(89年)、16,775人(95年)、62,246人(07年)

・就学率 3%前後(80年代前半)、12.1%(89年)、24.2%(95年)、52.8%(00年)、92.8%(07年)

・当時の沖縄社会では、学校は「大和屋」と通称され、「大和学問」をさせると子供は家を捨て、大和に 出て行くという噂がたっていた。(小熊英二著『<日本人>の境界』)

・あらかじめ「日本人」である者たちに忠誠心を育成してゆくのではなく、「日本人」という自覚のない者 を「日本人」に改造してゆく作業であった。(同)

②奄美諸島 人口12万人(77年)
・76年には、鹿児島県下に「正則小学校」が普及 鹿児島県師範学校開設(同年3月)

・奄美諸島では77年から83年にかけて、小学校が開設された → 「大島郡」118校(83年)

・教員養成伝習所(名瀬、79~81年)→約200名、同(瀬戸内、80~86年)→約150名 計約350名

・沖永良部島→小学校17校、生徒数933人(77年)、半年間の教員養成講習会(80年)→受講生78名
・泉二新熊(奄美大島出身、1876年生れ、大審院長) ※近代 → 本人の努力で地位の獲得が可能

・法学関係への進学が多く、島の振興に寄与する農・水・林産業等の職業や学校を軽視する傾向。

・「父兄が向学心に厚きは殆んど驚くの外なく、負債を起こして迄も子弟を遊学せしめ」(鹿児島新聞、明治38年)

・「何になりたいか?」(問い)→「日本人になりたい」(生徒) ※大正の初期、奄美大島のある小学校

<無国籍>地帯、奄美諸島 2

4.『在沖奄美人名鑑』(1959年版)~<無国籍>の悲哀~

(1)奄美諸島に対する施政権が米国から日本国へ返還(53年12月25日)されたことによって、在沖縄奄美諸島出身者は、<琉球籍>を喪失し、在留(琉)登録が必要となった。

(2)「外人」としての悲哀
・「外人としての登録制による居住を余儀なくせねばならなくなり」(在沖奄美連合会会長 池田武次)

・「外人としての存在を認識しながら沖縄の復興と発展に寄与してきた」(福井忠義)

(3)「権利の剥奪においては、非琉球人であり、義務の負担においては琉球人並みであった」(新崎盛暉)

①奄美諸島の返還にともなって、泉有平(琉球政府副主席/奄美大島)と池畑嶺里(琉球銀行総裁/奄美大島)は事実上、公職追放となった。

②在沖奄美諸島出身者に選挙権および被選挙権が与えられたのは1968年(主席選挙)。

5.<奄美>という実体はあるのだろうか

(1)島尾敏雄「奄美の呼び方」(59年)

・沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和にはいってからだ。

・それぞれの島はそれぞれキカイであり、トクノシマであり、エラブ、またヨロンであって、観念的にはアマミ の中の一つだと理解しても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこないふうだ。

(2)現在でも沖永良部島民と与論島民の日常会話に出てくる「奄美」という言葉には、自分たちの島のことは含まれておらず、徳之島以北、あるいは奄美大島のことを意味している。

Ⅰ 占領と帰属問題

1.「琉球諸島」に奄美諸島は含まれるのか

(1)GHQ指令「2.2宣言」(46年)によって、奄美諸島は他の北緯30度以南の島々とともに、日本領土から切り離された → 無政府状態 → 「北部南西諸島米国海軍軍政本部」開設(3月14日)

(2)「臨時北部南西諸島政庁」発足(46年10月) ※Provisional Government Northern Ryukyu

(3)奄美大島日本復帰協議会結成(51年2月) → 結成と同時に、署名運動を展開
・14歳以上の奄美諸島住民の99.8%(139,348人)が署名。署名拒否者、56名

(4)対日講和条約調印(51年9月)、発効(52年4月28日) → 「痛恨の日」(奄美連合復帰対策委員会)

(5)「講和条約第三条撤廃」をたな上げにした「実質復帰論(元鹿児島県大島郡の完全日本復活)」の台頭

①奄美人民共和国樹立論(奄美共産党)、奄美独立論(アナーキスト)、宮崎県帰属論、兵庫県帰属論、東京都帰属論。 ← 鹿児島に対する根強い反発   ※沖縄県帰属論はなかった

②参議院外務委員会の公聴会(51年2月6日) → 参考人:昇直隆(曙夢、全国奄美連合総本部委員長)

・「奄美大島諸島」は「薩藩のために沖縄が征服」されて以降、「240年間、全く薩藩の直轄の下に生存 して来た」のであり、明治維新後も「鹿児島県に属する」ようになったのであるから、「純然たる日本領であり、とくに終戦前までは鹿児島県の一部」であった。

・「新聞」が「奄美大島」と「琉球群島」「沖縄列島」を区別していない。

2.戦略的道具としての奄美諸島   ※皆村武一著『戦後日本の形成と発展』(日本経済評論社、1995年)

(1)「戦略的道具としての奄美諸島」(西欧の特派員)

・奄美諸島を一時的に米国の領有とし、必然的に起こる復帰運動は黙認するだけではなく、なんらかの方法であおり立て、最も効果的な時期をねらって日本に返還 → 日本国民の世論を北方領土へ

・参考:ロバート・D・エルドリッヂ著『奄美返還と日米関係』 ※吉田茂首相「バカヤロー解散」(53年3月)

(2)中華民国(台湾政府)、中華人民共和国の見解
①「奄美大島も沖縄とともに中国領」であるという理由から、日本への返還に反対(中華民国、53年11月)

②「中華人民共和国大地図」解説 → 「琉球列島(奄美諸島含む)」は「中国に返還させるべきである」

<無国籍>地帯、奄美諸島 1

2008年10月18日(土)に奄美地区教育研究集会において、前利さんが発表されたレジュメを、ご本人の了解を得たうえで、ブログに掲載いたします。

テーマは、「<無国籍>地帯、奄美諸島」です。

はじめに
※ここでは「国籍」を<帰属すべき場所><国家><実体>という意味で使う。

1.「琉球諸島自治政府」シンポジウム(99年1月、名瀬市) ※講師:吉元政矩(元沖縄県副知事)

(1)「琉球諸島自治政府」――「奄美諸島」「沖縄諸島」「宮古諸島」「八重山諸島」の各自治政府
  ※「琉球臨時中央政府」――「奄美群島」「沖縄群島」「宮古群島」「八重山群島」の各群島政府(占領時代)
  ※奄美群島政府時代(50年11月25日 ~ 52年3月31日)

(2)奄美側のパネリスト → 「本籍は沖縄、現住所は鹿児島」 ※「奄美」という本籍はあるのか?

2.高橋孝代著『境界性の人類学~重層する沖永良部島民のアイデンティティ~』(06年)

(1)著者は1967年、沖永良部島和泊町生まれ。第35回伊波普猷賞を受賞(08年2月)

(2)沖永良部島民のアイデンティティ(600人を対象にしたアンケート)
①帰属意識

<全体>「鹿児島県」47% × 「沖縄県」53%
<知名町>「鹿児島県」37% × 「沖縄県」63%
<和泊町>「鹿児島県」56% × 「沖縄県」44%

②高校野球 ※<鹿児島><沖縄>は、出自を示す

<全体>「鹿児島県代表」27% 「沖縄県代表」29% 「両方」41% 「どちらでもない」3%
<鹿児島>「鹿児島県代表」41% 「沖縄県代表」20% 「両方」39% 「どちらでもない」0%
<沖縄>「鹿児島県代表」11% 「沖縄県代表」54% 「両方」35% 「どちらでもない」0%

③文化的アイデンティティ(どれだけ愛着や親近感を感じますか)
ア.非常に感じる イ.どちらかといえば感じる ウ.どちらかといえば感じない エ.全く感じない

<沖縄の歌、踊りなどの芸能> ア(54.5%) イ(39.3%) ウ(5.4%) エ(0.8%)
<沖縄の言葉> ア(30.3%) イ(53.7%) ウ(13.4%) エ(2.7%)
<鹿児島の歌、踊りなどの芸能> ア(4.7%) イ(30.6%) ウ(48.7%) エ(16.1%)
<鹿児島の言葉> ア(6.1%) イ(25.0%) ウ(42.7%) エ(26.3%)

3.文学にみる<無国籍> ※松下博文(筑紫女学園大学教授)、南方新社『新薩摩学~薩摩・奄美・琉球~』

(1)安岡伸好(喜界島出身)、一色次郎(沖永良部島出身)、干刈あがた(沖永良部二世)
①安岡伸好「地の骨」(芥川賞候補、58年) → 「対薩摩」への怨念の姿勢を崩さない。
②一色次郎「青幻記」(太宰治賞、67年) → 「奄美(沖永良部島)」と「薩摩」と「琉球」で宙吊り。
③干刈あがた「入江の宴」(芥川賞候補、84年) → 父母の地(沖永良部)、<琉球>へ繋がろうとする。

(2)安達征一郎「怨の儀式」(直木賞候補、奄美大島出身、73年)、「日出づる海日沈む海」(同、78年)
 『祭りの海』(87年)は、北緯29度線と30度線で切り取られた敗戦後のトカラ列島が舞台。

米軍統治下にあっても国境や国家原理をまったく無視した糸満漁夫の「回遊魚」的な行動力。「薩摩」とか、「琉球」とかを完全に無化してしまう、壮大なスケールの中に作品は進行する。糸満漁夫は漂白民であり、サバニと櫂さえあれば、どこにでも漕ぎ出してゆく、いわば無国籍者である。(松下博文)

島の厳しい現実と自治

6月7日の八重山毎日新聞に「ともに支え合う地域に」と題する社説が掲載されていましたので、ご紹介します。

石油価格上昇が離島経済や生活に大きな影響を与えています。生活苦に追い込まれた高齢者をサラ金業者が狙うという地獄図も石垣島でみられます。島の厳しい現実を見据えながら、それを乗り越えるためにも一人ひとりの自治的自覚と、協働の営みが重要であると考えます。





容赦ない物価高騰の波
 すさまじい値上げラッシュだ。原油高騰でガソリン価格は上昇し続け、物価に跳ね返る。賃金は上がらず、庶民の暮らしは苦しい。これでは旅行どころではない。生活を切りつめてしのぐだけで精いっぱいだ。

 観光が基幹産業となった八重山は、その影響をもろに受けている。昨年10月から観光客が減り、4月は台湾クルーズ船の寄港で統計的にプラスに転じたが、空路はマイナス。実質的に7カ月連続で減り続けているのだ。

 さらに子牛価格が暴落し、畜産農家は苦しんている。

建設業も資材高騰に悲鳴をあげ、生活物資の輸送に重要な役割を果たしている有村産業も運航を停止した。路線バスも竹富町内の離島定期航路も運賃が引き上げられる。

 物価上昇は、離島ほど大きい。都市圏のように市場競争で物価が抑制されることはない。輸送費は直接価格に上乗せされる。賃金水準は低く、年金頼りのお年寄りや障がい者はさらに厳しい。

■核家族化で生活環境変化
 八重山は人口の約3割が65歳以上の高齢者だ。農・水産業に従事していた人が多く、年金額は少ない。

やっとのことで、やりくりしている人々が大半だ。そのお年寄りにも、物価値上げの波は容赦なく襲いかかる。バス、タクシー運賃が上がれば身動きは取れない。

 高齢者を取り巻く環境は復帰後、核家族化が急速に進み、大きく変わっている。子どもと同居する世帯は減り、夫婦または1人暮らしの人が増えた。

 このため、中には子どもや周囲の人々とコミュニケーションがうまく取れず、消費者金融や悪質商法などの被害に遭う人も目立っている。

 生活に窮して誰にも相談できず、借金を重ねたり、人を疑わない素朴な人柄が悪質業者に狙われる。

県民生活センターへの相談件数(06年度)は石垣市で人口1000人当たり9.8人。県ワーストを記録、また竹富町も6.7人でワースト2と最悪だった。

 自然豊かな癒やしの島、長寿の島と言われながらも孤独死したり、万引など犯罪に手を染める人、自ら命を絶つ高齢者も増えている。

■サポート体制づくりを加速させよ
 八重山地区老人クラブ連合会は先の総会で事業計画に「高齢者相互支援活動」の強化を決定した。

 石垣市では、高齢者の生きがいづくりの趣味の活動などは他市町村に比べて充実している。市老人福祉センターを拠点に数多くのサークルがあり、バスでの送迎も行われている。

ボランティア団体もハッスルばあちゃんの会やあしながおばさんの会、うふだき会ほか数多くの高齢者ボランティア団体が郡内にある。

 05年には市社会福祉協議会のテコ入れで、新川地区地域福祉ネットワーク推進会が発足した。公民館や青年会、子ども会などの各団体を網らして要支援世帯を地域でサポートする組織で、台風前の声かけや対策など、民生委員と連携して活動を繰り広げている。

 ただ、お年寄りを取り巻く環境は急激に悪化しており、それに支援体制づくりが追いつかない。

 他県の自治体の中には、高齢者福祉課を設置して民間支援団体づくりや相談窓口を強化しているところもある。 地域が総力をあげて共に支え合うコミュニケーションづくりを加速させなければ、お年寄りの孤立感は増すばかりだ。高齢者問題にいま一度目を向けよう。

失われゆく島の文化

7月19日の八重山毎日新聞に「失われゆく島の文化」と題する社説が掲載されていましたので、ご紹介します。時代の流れの中で変わりゆく文化のありように警鐘をならす、島の新聞ならではの社説だと思います。何を我々は後世に残していけるのかが問われているのではないでしょうか。






比屋根勇追悼公演
 沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡技能保持者比屋根勇氏の追悼公演があった。故人とかかわりのある人々によるものだが、あらためて見直したいくつかの芸能に出会うことができた。

公演は3つの要素で構成されており、1つは縁者による追悼芸、2つめはかかわりのあった実演家提供の舞踊、3つめは実際に共演したり指導を受けた者たちの芸である。

長男比屋根重雄氏を中心に行われた追悼芸は、単に肉親の絆(きずな)を示すにとどまらない世界があった。

2つめの舞踊は本盛秀八重山舞踊研究所の「与那覇節」、仲村米子関西琉球舞踊研究所の「柳」「鳩間節」、宇根由基子八重山舞踊研究所の「大本山崇び」である。いずれも、ゆるぎない力量を持った質の高いもので、心洗われる思いがした。

 3つめは「木挽ギ」、VTR「狂言」「昔アンガマ」である。「木挽ギ」は登野城に伝わる古謡をうたいながらの共同作業情景を舞台にしたものだが、出演者がひしめきあって繁雑(はんざつ)な印象を受けた。

 VTR「狂言」は方言文化の傑作で、「昔アンガマ」は素朴な中にきらりと光るものがあった。

■八重山の民俗文化
 ここでとりあげたいのはVTR「狂言」と「昔アンガマ」である。この2つの演目には現在接することのできない重要なものが内包されていて、時の流れによって消失した本物に触れる思いがするからである。

 かつて沖縄は皇民化教育のおしつけがあり、日本と一体化しなければという立場から方言をなくす運動を推進したことがある。よく沖縄文化の豊かさが語られる今日、方言札まで設けて教育の場から沖縄的なものを一掃しようとはかった当時のことが、ひきあいに出される。
 
八重山はあまり訛(なまり)がないこともあって、県内ではよい成績をあげていたといわれる。

そのことが拍車をかけ、方言が先細りしていった。近年島の言葉を大切にしようと方言大会が学校や公民館などで催されるようになったが、日常生活から消えた言葉はなかなか戻らない。

VTR「狂言」は比屋根勇、富永実彦両氏によるものであり、間髪を入れずに出てくる豊かな方言に終始圧倒される思いであった。筋立ては人間味にあふれ、展開も絶妙であった。

 いまひとつは「昔アンガマ」である。島の衣装を着け、簡単な仮面で顔をかくし、クバ笠姿の念仏集団アンガマは、まぎれもなく八重山のものだといえるものがあった。

昨今の浴衣に広帯、花笠に頬かむりをしてサングラスをし、脚絆、白足袋姿を見ていると、どうしてこのような変化をしたのかと思う。

 この「昔アンガマ」を古くから脈々と受け継がれた伝統としてとらえなおすことはできないのであろうか。

■風土と伝統
 伝統行事の中の祭祀を八重山は古くから大切に守り育ててきた。それがこのごろは本道をはずれ、横道にそれている感を強くする。

生活様式の複雑化やテンポの早い変化にあって、本来の意義を見失いつつあるということであろう。

何故に型をくずさず伝承してきたのかを問いつめることもなく、目先の利便性に安易にとびつく例などをみていると、その行事や伝統文化の内容をとらえているとは思えない。

 かつて命がけでとり行ってきた天恵への感謝儀礼に、村の中枢部がどこにでもあるような印半(しるしはん)てんを着用したり、奉納芸能を余興と呼んだりしていることはどうかと思う。

伝統にはある種の窮屈さはつきもので、その頑(かたく)なさが行事を支え、意義あらしめていることをいま一度認識しておきたい。

不便な生活を楽しむ

8月 9日の八重山毎日新聞に「ちょっと不便な生活を楽しむ」と題するコラムが掲載されていましたので、ご紹介します。
このまま、欲望のままに島を開発したら、島は滅びるとの危機感がわたしにはあります。
不便さを楽しむことが、島の豊かさを感じることにもつながるのだと思います。




島にも便利さが溢れている

現代は便利で物やサービス・情報があふれている社会だ。20世紀に達成した先進国の大量生産・消費の経済様式は八重山の小さな島々までその恩恵に浴する結果となったが、地球規模では地域格差や新たな問題が発生している。

ホテルのバイキング料理、レストランや宴会・売れ残り弁当の生ごみ・ワリバシなどの残骸が大量に発生、安い外国産商品の氾濫は国内の一次産業を衰退させ自然を破壊している。

 コンビニ・スーパー・ファストフード店・居酒屋の深夜営業、最近では24時間営業店も加わり、欲しいものは我慢することなくいつでも簡単に手に入る便利な社会となった。

自動販売機は島中ところかまわず設置され、深夜でも煌々と明かりを放っている。

 商品の過剰包装、大量に配られる折込チラシ、テレビやラジオのこれでもかといわんばかりのコマーシャル放送、道路わきの景観を阻害する大きな広告・看板、空港などで配られる無料パンフレット・情報誌などを通じ経済界は売らんがための知恵を駆使して消費者の購買意欲をあおっている。

■「もったいない」の心を

 人口5万人余の島々に延べ230万人の観光客が押し寄せ、1日あたり6400人の観光客が滞在し、県外の移住者も増え都市の生活スタイルが八重山に大きな影響を与え、同一化が進んでいる。

 しかし21世紀に入り、これらの消費スタイルにわずかながら変化の兆しが見え始めた。

大量生産、大量消費は便利さ、快適さを実現したが、自然や物つくりにかかわる人々への尊敬と感謝の念を失なわせ、「使い捨て」文化の増長、便利さの追求は地球環境への負荷を高め温暖化を加速しているという批判が多い。

2004年にノーベル平和賞を受賞した環境運動家・ケニヤ出身のワンガリ・マータイ女史は持続可能な開発と環境との調和を提唱し先進国の消費スタイルに警鐘を鳴らした。

 2005年に来日した際、日本古来の物つくりを大切にする言葉「もったいない」を知り、世界各地でもったいない運動を実践している。

 2005年には嘉田由紀子がもったいない運動を掲げ、新幹線新駅、ダム建設、廃棄物処分場建設の凍結を訴え滋賀県知事に当選した。

■ライトダウンに協力して
 世界中どこでもつながる多機能の携帯電話、24時間営業のコンビニ、酒やたばこまで売る自動販売機、手をかざしただけで自動的にお湯が出る生活、手を上げれば止まる流しのタクシーなどを実現した私たちだが、果たしてこれほどの便利さは必要不可欠なものだろうか。

携帯電話に頼り、会話によるコミュニケーションがとれず、わがままですぐキレる現代の若者たち。飲食店で深夜まで徘徊(はいかい)する大人たちが身の回りになんと多いことか。

 譲り合い、妥協し辛抱することや物を大切にする心を失い、汗を流して不便さ、不自由さを乗り越え物事を達成する喜び・感謝・感動が少なくなっていることは現代社会が失っているもので将来の大きな不安材料だ。

 端的に言えば飲酒運転、非行少年の横行、男性の長寿日本一からの転落など悪影響を与えている。婦人会などが中心となり盛んに取り組んだ「シンデレラタイム運動」は最近どうなっているのだろうか。

 おりしも今夜は「星まつり」が開催され全島ライトダウンが計画されている。

省エネに協力し、ちょっと不便かもしれないが、電灯をいっせいに消して織姫と彦星のロマンスの故事を家族とともに語り合うことは大切なことかもしれない。

西浜楢和さんの沖縄戦についてのコラム②

『沖縄タイムス』2008年7月10日付
沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか(下)
―「捨て石」感情今も継続  変革にヤマトゥ無自覚

 戦争の記憶について、子安宣邦は、「戦争の暗部を隠蔽し、その過去の<書き換え>を求める国家と、過去と和解しつつ、無意識に過去の暗部を忘却のうちに置こうとする平和主義的国民とは、あえていえば戦後意識における同罪的な構造を形成してきた」(『現代思想』1995年1月号)と述べている。

◆ 本 土 進 攻 ひ き 延 ば し

筆者は、この国民の中にウチナーンチュは含まれないと考える。

何故なら、45年から72年までの27年間、ウチナーンチュはヤマトゥ(日本)国家から切り捨てられ渡航も自由にできなかったという現実とともに、もっと本質的にはウチナーンチュは、「過去と和解しつつ」、「過去の暗部を忘却のうちに置」けなかったからである。

だからこそ、国家が「過去の<書き換え>を求める」のに対してウチナーンチュはそれを認めることはできないのである。

 沖縄戦は、米軍の本土進攻をひき延ばすための捨て石作戦であった。「捨て石」とは何か?
「すぐには役立たないが、将来に備えてする行為」、「将来、または大きな目的のために、その場では無用とも見える物事を行うこと」とある。

沖縄戦に勝ち目はないが、将来の本土決戦、国体(=天皇制)護持に備えてする行為、将来のヤマトゥのために、または国体護持という大きな目的のために、その場では無用とも見える沖縄戦を行うことだ。

他者を「捨て石」にすることは差別である。だから、この「捨て石作戦」は、ヤマトゥによる沖縄差別(政策)であった。

◆ 民 衆 を 守 ら な い 軍 隊

 それ故、沖縄戦から導きだされたとして人口に膾炙している「軍隊は民衆を守らない」という教訓は掘下げる必要がある。

沖縄戦で引き起こされた歴史的事実は、「ヤマトゥの軍は住民を守らなかったどころか死に追いやった」ということであり、より正確には、「ヤマトゥの軍隊はウチナーンチュを虐殺し、(強制集団)死に追いやった」ということだ。

歴史に仮定はないが、本土で沖縄戦のごとき地上戦が展開されていたなら、ヤマトゥの軍隊は、ウチナーンチュを虐殺したようにヤマトンチュを殺したであろうか。疑問を禁じ得ない。

沖縄戦後、「沖縄人がスパイを働いたから友軍は負けた」という情報は早くからヤマトゥに流されていた。

一方で、ヤマトゥの軍によるウチナーンチュに対する蛮行(住民虐殺、強制集団死、壕追い出し、食料強奪等々)は隠ぺいされた。これは、語るにはあまりにも辛い戦争体験を経たウチナーンチュを逆利用することによって可能となった。

◆ 検 定 意 見 放 置 は 怠 慢

例えば、昨年9月29日の県民大会で、県民へのアピール(開会のあいさつ)として詠まれた次の詩は、「国民の記憶」へと、怒りを孕みながら希求するものである。

砲弾の豪雨の中へ放り出され/自決せよと強いられ
死んでいったうちなーんちゅの魂は
怒りをもって再びこの島の上を さまよっている

いまだ砲弾が埋まる沖縄の野山に/拾われない死者の骨が散らばる
泥にまみれて死んだ魂を/正義の戦争のために殉じたと

偽りをいうなかれ
歴史の真実をそのまま/次の世代へ伝えることが
日本を正しく歩ましめる

歪められた教科書は/再び戦争と破壊へと向かう
沖縄戦の死者の怒りの声が/聞こえないか
ヤマトゥの政治家・文科省には届かないか

届かなければ/聞こえなければ
生きている私たちが声を一つにして/押し上げ/訴えよう

「捨て石作戦」は過去だけではなく、現在まで継続している。戦争のできる国になるために、または大きな日米同盟のために、在日米軍基地の75%を沖縄に押し付けて、沖縄はヤマトゥの捨て石と今もされているからである。

この現状を変革することにヤマトンチュが自覚的にならなければ、苦闘する沖縄と出合うことはできない。

 去る3月28日、大江・岩波沖縄戦裁判で大阪地方裁判所(深見敏正裁判長)は、被告側勝訴の判決を言い渡した。

これにより文科省の検定意見の根拠は潰えたといえる。なぜなら、原告の陳述書が検定意見の根拠の一つとなっており、判決はそれを明確に否定したからである。

ところが、文科省は、「最終的な司法の判断が出ていない。現段階で何も言えない」(4月16日の県民大会実行委員会の要請に対する池坊保子副大臣の回答)と述べ、事実上拒否する姿勢を示している。

原告が控訴したことで今も係争中であり、文科省としては現時点で対応することは適切でないとの判断なのだ。

その論理に当てはめれば、結論が出ていない裁判での意見陳述を検定意見の根拠の一つにしたこと自体、適切ではなかったことを自ら認めたことに等しいのである。

 こうした文科省(すなわちヤマトゥ政府)の不条理を許したまま放置するのであれば、ヤマトンチュは怠慢の謗りを免れないであろう。

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