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プロフィール

Yasukatsu Matsushima

Author:Yasukatsu Matsushima
1963年琉球石垣島生まれ。石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島にて育つ。

その後、東京、グアム、パラオ、沖縄島、静岡、京都、滋賀にて学び、働き、生活する。

著書に『沖縄島嶼経済史―12世紀から現在まで』藤原書店、2002年
『琉球の「自治」』藤原書店、2006年
『島嶼沖縄の内発的発展―経済・社会・文化』(編著)藤原書店、2010年、
『ミクロネシア―小さな島々の自立への挑戦』早稲田大学出版部、2007年
『琉球独立への道』法律文化社、2012年
『琉球独立論ー琉球民族のマニフェスト』バジリコ、2014年
『琉球独立ー御真人の疑問にお答えします』Ryukyu企画、2014年
『琉球独立宣言ー実現可能な5つの方法』講談社文庫、2015年
『民際学の展開ー方法論・人権・地域・環境の視座から』(編著)晃洋書房、2012年
『琉球列島の環境問題ー「復帰」40年・持続可能なシマ社会へ』(編著)高文研、2012年
『3・11以後何が変わらないのか』(共著)岩波書店、2013年
『島嶼経済とコモンズ』(編著)晃洋書房、2015年
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大晦日のご挨拶

本年も今日一日となりました。

NPO法人ゆいまーる琉球の自治として、伊江島、西表島で集いを開き、当事者意識をもって島の問題を考えてまいりました。多くの皆様のご協力によって集いを開くことができました。心よりお礼申し上げます。

本年の集いで出会った方々とのつながりを今後も大切にして、琉球の自治のためのネットワークを広げていきたいと考えていますので、ご支援、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

来年も5月ごろに沖永良部島において集いを開く予定です。

来年も、自らが信じた道を一歩一歩進んでいきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いします。

先日、研究開発支援総合ディレクトリーに私の主要な研究内容(本、論文、学会発表、その他)を
書かせてもらいましたので、ご関心がおありの方は、次の

READ(研究開発支援総合ディレクトリー)のホームページ(http://read.jst.go.jp/)にアクセスして、
私の名前を入力して、見てください。

また来年度もどうぞよろしくお願い申し上げます。

                                        松島泰勝拝


http://read.jst.go.jp/
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ゆいの精神を発揮しよう

12月29日の八重山毎日新聞に厳しい社会生活の中で「ゆいの精神」を発揮しようと呼びかける記事がありましたので、ご紹介します。
八重山諸島にとっても今年は大変な年であったことが分かります。このような厳しい時にこそ、島の力である、ゆいまーるを見直して、新しい年に望むべきではないかと思います。

「困ったときには、1人で悩まずに相談しよう。苦しみもみんなで共有しよう。復帰前はみんなが支えあって生活してきたのだ。それが島社会の原点で、八重山にはまだ残っているのだ。」という言葉は、八重山の自治の可能性を示すものであるといえます。




市民生活直撃した激動の1年
 1年の世相を反映する漢字に「変」が選ばれたように、今年は物価上昇による生活の変化が著しく、
世界経済の大変動に見舞われた。

 八重山の「変」は長雨に始まり、オニヒトデ大量発生、観光客の減少、大型台風被害、原油価格高騰に伴う物価値上げラッシュ、子牛価格の暴落と、まさに激動の年だったといえよう。

 とりわけて原油高騰の経済異変は、郡民生活を直撃した。有村産業の倒産で海路の旅客は閉ざされ、バス、タクシー料金値上げ、さらに離島定期航路も燃油サーチャージ制を導入、食品を中心に生活物資が軒並みアップした。

 輸送コストが大きい離島には、都市の数倍ものスピードで経済変動の波が押し寄せたのだ。

 その荒波に産業も揺れた。八重山経済を支える観光は、景気悪化に伴う旅行需要の冷え込みに必死に耐えている。

希望退職を募ったホテルもあり、雇用調整に入った。公共工事の減少、資材高騰で経営に行き詰まった老舗建設会社もある。

■子どもたちの活躍の年でも
 だが、暗い出来事ばかりではない。雨にたたられたものの、ロッテキャンプがスタートし、子どもたちはあこがれのプロ野球選手を間近で見られるようになった。少年野球の指導者に与えたインパクトは大きい。大相撲の巡業もあった。

 また「八重山から都大路に行かす会」も発足し、八重高男子駅伝部がその期待に応えた。最終的に県大会で2位となり出場権は逃したものの、子どもたちはそれまでの下位グループからトップクラスまで、成長を遂げたのである。これは一昨年の甲子園出場と同様に、八重山の子どもたちの身体能力の高さを裏づけ、地域の支援体制次第でどの競技でも目標レベルに達することを見せた。
 
さらに中高校各校が各種大会で「日本一」を次々と獲得。全国農林水産祭では畜産農家の多宇夫妻が県初の天皇賞に輝いた。「日本一」の畜産農家を輩出したのである。

 市北西部地区や竹富、与那国両町のブロードバンド整備も進んだ。また環境問題への意識も高くなった。

市の景観条例を支援する民間団体が発足し、地球温暖化防止など活発に活動している。大きな特徴だろう。

■不況克服には原点回帰
 やがて新年を迎えるが、100年に1度と言われる世界同時不況で、より厳しいスタートとなりそうだ。

昨年暮れには八重山職安窓口から季節求人がなくなった。昨年から下降傾向にあった基幹産業の観光も、入域客が大幅ダウンし、旅行控えで年明けはさらに厳しさを増すものと見られる。

 移住ブームで次々と建設された共同住宅も飽和状態となり、入居者募集の看板が目立つようになった。どのように経済不況の大波が押し寄せてくるのか分からない。

 このような冬の時代を乗り切るため私たちは結集して知恵を絞らなければならない。同時に助け合いの心、「ゆいの精神」を発揮しよう。

 都市化が進み、市街地では隣人の顔が見えにくくなった。島社会で孤独死も起きている。困ったときには、1人で悩まずに相談しよう。苦しみもみんなで共有しよう。復帰前はみんなが支えあって生活してきたのだ。それが島社会の原点で、八重山にはまだ残っているのだ。

 原点回帰は嵐が過ぎ去ったあと、必ず大きな効果をもたらすのだ。

石垣島の移住ブームの終焉

12月28日の八重山毎日新聞に石垣島への移住ブームが終焉したとの記事が掲載されていますので、お知らせいたします。本気で島で生活をしようと思っていない人が島の現実に気づいて出身地に帰っていることも原因として考えらえます。

また、生活、景観、環境を守ろうとする住民の意識が強くなり、安易に移住をしようとする人々の流入を防いでいるのかもしれません。今後、供給過剰で建設されたアパートなどによる、経済的後遺症が心配されます。





逆に本土に引き揚げ

石垣市の2008年人口動態は、転出が転入を上回る社会減となる見通しとなったことが27日までに分かった。

11月末現在、転入から転出を差し引いた社会増減はマイナス102人。移住ブームを受け06年には467人の社会増となったが、07年から落ち着きを取り戻し、08年は01年以来7年ぶりにマイナスに転じた。

沖縄移住支援センターの担当者は「移住ブームで入ってきた人が帰っているのではないか」との見方を示している。

市民生活課が毎月出している人口移動表を集計した結果、今年1月末現在から11月末現在の転入者は2979人、転出者は3081人で、転出が102人上回った。このうち県外からの転入は1371人、転出は1437人、66人の社会減となった。

 移住ブームが完全に落ちついたことを裏付ける数字とみられ、「マンション(吉原マンション)問題が出たころから問い合わせが減ってきている」とセンター担当者。背景には景観に対する市民の意識の高まりもあるようだ。

 担当者は「一昨年のピーク時には月で70―80件の問い合わせがあったが、去年から落ちついており、現在は10件程度と去年と変わらない。ここ3年で入ってきた人たちが帰っているのではないか」と指摘し、その理由の一つとして所得水準の低さを挙げた。

市役所の問い合わせ窓口となっている市商工振興課の職員によると、移住者から「物価や家賃が高い割には所得が低い」「もっと静かでのんびりしていると思ったが、意外とうるさい」との声が寄せられるなど、テレビで作られるイメージと現実とのギャップに戸惑う姿もみてとれる。

 市内では移住ブームを当て込んだアパートの建設ラッシュもピークを過ぎたが、現在では空き部屋も目立つようになっており、社会減は今後のアパート経営の懸念材料となりそうだ。

 一方、出生から死亡を引いた自然増減はプラス316人で、人口は4万8127人と07年12月末の4万7913人から214人増えている。

自給自足の実践

一昨日、京都府宮津市の山奥にある木子という集落に行ってきました。自宅から車で、若狭街道を通り、小浜、舞鶴、天橋立など通り、木子の「ペンション自給自足」に1泊しました。

通りながら、原子力発電所関連の施設が各地にあり、舞鶴には海上自衛隊の軍艦が数隻停泊していました。日本海は大変荒れており、太平洋、東シナ海とは少し違う雰囲気がありました。

一昨日は大変な雪で、若狭街道ではスタッドレスのタイヤが少し流れるなどのハプニングもありましたが、除雪車がきてくれたので、徐行をしながら目的地までいくことができました。雪の美しさとともに、生活上の困難さの一部を体感しました。

木子でも雪が50,60センチ積もっており、町中よりも大変雪が多かったです。

ペンション自給自足の経営者の方は20年前に大阪から農業をするために木子に移住し、現在はペンションをされています。一度は廃村になった地域ですが、都会からの移住者によってふたたび人が住むようになったそうです。有機農業をされている方々もおられ、宿の食事も手作りのお米、野菜、味噌、紫蘇ジュースなど、手作りのものばかりでした。

宿の方から村の歴史、自給自足の実践、行政やJAが進める農業の問題性、歴史のある村がどんどん消えていく現実の話を聞きました。

それとともに、「月に1万円」で生活できるほどに、地域の自然の恵みが豊かなこと、物々交換というもう一つの経済のあり方、人が自然の中で生きる力を有しているという可能性を学ぶこともできました。

宿のおじさんは自らの力で新しい小屋を作っていました。

琉球の島々でも少しの現金で豊かな生活をしている人々がおりますが、山間部においても自給自足の実践をされている方がいることに力を得ました。また行きたいと思います。

映画「ふつーの仕事がしたい」関連ブログ

来年1月13日の龍谷大学でのイベントにつきまして、土屋監督自身が次のブログで紹介しています。

「http://tokachi.jugem.jp/blog 白浜台映像事務所」

ブログの内容は次の通りです。


アワープラネットTVの副代表理事である
龍谷大学助教授・松浦さと子さんから連絡をいただき
母校へ講演に行くことになりました。

何だか偉そうですが、むずかしい話はできないので
無理なく話してきます。

学生の皆さんは試験直前ですから、何人参加していただけるか判りませんが、
個人的には15年ぶりの、母校再訪で嬉しいやら恥ずかしいやらです。

たぶん京都駅からトコトコ歩いて、
大好きな京阪電車に乗って、深草駅で下車して行きます。
関西の方面の方、よろしかったらどうぞ~。

日時:2009年1月13日(火)15時~17時30分
場所:龍谷大学深草学舎21号館603教室

内容:講演と映画「フツーの仕事がしたい」の予告編上映プラスその他。
問い合わせ:龍谷大学経済学部 松浦さと子さん 
075-642-1111(内線3535)




松浦先生には、竹富島の上勢頭さんが龍谷大学で講演した際にも、先生の授業で話させていただくなど、大変、お世話になっています。今回も、このような機会を頂戴し、心より感謝しています。
松浦先生は、奄美大島の奄美FMの麓さんとも交流があります。地域とメディアとの関係についても
御研究されています。

関西にお住まいの方はぜひともいらしてください。


民際学研究コースのイベント(「フツーの仕事がしたい」)

2009年1月13日、龍谷大学の21号館603号室におきまして、土屋トカチさんの講演会と研究会を開催いたします。同イベントは龍谷大学大学院経済学研究科民際学研究コース主催となります。
入場は無料ですので、お時間がおありの方はお越し下さい。

土屋さんはドキュメンタリー映画「フツーの仕事がしたい」の監督です。また、龍谷大学法学部の卒業生でもあります。

現在、不況が深刻化するようになり、「派遣切り」といわれる状況が全国各地で報告されています。このような時期であるからこそ、この映画について考え、意見を交換したいと思っています。

全国各地で上映会が開かれているようですので、ぜひ、見て下さい。

映画のチラシには次のような文章が記載されています。



21世紀に甦る、リアル「蟹工船」。
皆倉信和さん(36歳)は、根っからの車好き。

高校卒業後、運送関係の仕事ばかりを転々とし、
現在はセメント輸送運転手として働いている。

しかし、月552時間にも及ぶ労働時間ゆえ、家に帰れない日々が続き、
心体ともにボロボロな状態。 「会社が赤字だから」と賃金も一方的に下がった。

生活に限界を感じた皆倉さんは、藁にもすがる思いで、
ユニオン(労働組合)の扉を叩く。

ところが彼を待っていたのは、会社ぐるみのユニオン脱退工作だった。
生き残るための闘いが、否が応でも始まった。

撮影・編集・監督・ナレーション:土屋トカチ
出演:皆倉信和

取材協力:全日本建設運輸連帯労働組合、皆倉タエ、皆倉光弘
ナレーション:申嘉美

音楽:マーガレットズロース「ここでうたえ」 (アルバム「DODODO」より オッフォンレコード)
制作:白浜台映像事務所/映像グループローポジション
配給・宣伝:フツーの仕事がしたいの普及がしたい会
宣伝協力:ポレポレ東中野

2008年/日本/DV/70分/カラー

「フツーの仕事がしたい」 ・・・
状況の差こそあれ、心のなかで

そうつぶやいたことのある人は多いだろう。

本作は、数値的にみれば明らかに「フツー」ではない
労働環境に身をおく主人公が、労働組合の力を借りて、
「フツーの仕事」を獲得する過程を描くドキュメンタリーである。

この主人公の労働状況は特別ひどいケースでありながらも、
どこを切っても、いまこの社会を生きる自分につながっていると思わせる。

彼の口から
「この業界では、フツーだと思っていた。」
「(運転は)好きなことだから仕方がない・・。」というような
言葉が飛び出すとき、観る者は彼の問題をぐっと身近に感じるはずである。

もし、あなたが毎日の暮らしに追われ、自分の労働環境について
立ち止まり考えたこともなかったとしたら・・・。

この映画体験は、おそらく自分がより良い状態で
働き生きるための大きなヒントになるかもしれない。

奄美諸島の復帰饌年に/重要な近現代史の視点

南日本新聞に前利さんの時論「奄美諸島の復帰饌年に/重要な近現代史の視点」が掲載されました。前利さんのご許可をいただき、このブログに転載させていただきます。




知名町職員 前利 潔
奄美諸島に対する施政権が米国から日本国へ返還されてから、二十五日で五十五年を迎えようとしている。

 復帰運動において、重要な意味をもつ二つの歴史的事件がある。来年で四百年になる薩摩藩による琉球侵攻と、百三十年を迎える明治政府による琉球処分である。

 奄美大島日本復帰協議会の結成(一九五一年二月)とともに取り組まれた署名運動では、十四歳以上の奄美諸島住民の骼%が署名したという。その署名録を添えて連合国軍最高司令部に提出された「奄美大島日本復帰についての陳情嘆願書」は、この二つの歴史的事件をとりあげて、奄美諸島が「古来からの日本領土」であったことを「論証」している。

 琉球侵攻によって琉球王国から切り離された奄美諸島は、一六一一年から薩摩藩の直轄地となった。琉球処分とは琉球王国の日本国への併合である。それは、清国との外交問題に発展した。

 日清間の交渉は、分島改約(琉球二分割)案として妥結した。宮古・八重山諸島は清国帰属、沖縄諸島以北は日本国帰属という内容である。しかし、分島改約案は清国政府が調印しなかったことによって、破棄となった。

予備交渉の場では、清国政府から琉球三分割案が提案されていた。宮古・八重山諸島は清国帰属、沖縄本島には琉球王国復活、奄美諸島は日本国帰属という内容であった。この案は明治政府の拒絶によって、立ち消えとなった。いずれの分割案でも、奄美諸島は日本国帰属であった。

 薩摩藩の直轄地、分島改約案における日本国帰属が、「古来からの日本領土」の証明であった。奄美側がこのような論理を持ち出した背景には、米国が一九五〇年十月に発表した講和七原則に、「日本は(中略)琉球諸島及び小笠原諸島を米国の信託統治下におくことに同意しなければならない」という条項があったからだ。

 講和会議に向けて、「琉球諸島」に「奄美群島」は含まれていないことを訴えるねらいがあった。それは〈琉球(沖縄)〉を排除することによって、奄美諸島の住民が〈日本民族〉であることを証明することでもあった。

奄美諸島の日本返還は、国際政治の舞台からみれば、「道具」であった。

 米国にとっては戦略的に重要な沖縄の保有を前提に、それほど重要ではない奄美諸島は返還するという、対ソ戦略上の道具であった。

 中華民国(台湾政府)は、「奄美大島も沖縄ももと中国領」という理由から、奄美諸島の返還に反対を表明した(五三年十一月)。その主張には無理があることを承知のうえで、戦略的観点から琉球列島の領有を主張したといわれている。

 当時の日本国の首相、吉田茂にとっても道具であった。バカヤロー解散(五三年三月)で窮地に陥っていた吉田は、総選挙を有利に運ぶために、米国政府に奄美諸島の返還を強く要請した。

駐日米大使館側も吉田の思惑に理解を示していたが、米国国家安全保障会議の場で奄美諸島の返還が決定したのは、総選挙後の六月のことであった。

 今年は、帝国議会の一部議員から、沖縄を台湾総督府の直轄に編入して「南洋道」を新設するという構想が提案されてから、百年でもあった。

同構想には元沖縄県知事、奈良原繁貴族院議員が深くかかわっていた。奈良原は、鹿児島県人である。「中央政府が持て余している沖縄県を台湾総督府の管轄に移して、内地の負担を軽く」したいという考えであった。

 〈皇国日本〉への同化を進めていた沖縄側は、猛反発した。沖縄側が持ち出した論理は、「台湾は異民族、沖縄は日本民族」というものであった。

「南洋道」構想には奄美諸島も含まれていた、という指摘もある。

 奄美諸島の歴史は、国家の思惑に翻弄(ほんろう)されてきた歴史でもある。自己満足的な復帰運動史ではなく、例えば占領史として近現代史のなかに位置づけて研究する時期に来ているのではないか。

[略歴]
 まえとし・きよし氏 1960年、知名町生まれ。琉球大学法文学部卒。日本島嶼学会会員。法政大学沖縄文化研究所国内研究員。主な論考に「〈無国籍〉地帯、奄美諸島」(共著『反復帰と反国家』所収)。

西表島で20年ぶりにバシマム大会が開催される

12月22日の八重山毎日新聞にて20年ぶりに島言葉大会が復活したことが報じられていますので、お伝えします。祖納の方々には先月のゆいまーるの集いでは大変、お世話になりました。

金星さんは次から次へと自治の取り組みをされており、大変、刺激になります。島言葉の大会によって「学力向上」を図るのが、本当の琉球の教育と言えるのだと思います。





西表小中学校体育館で19日、「学力向上対策実践発表会」が行われ、大勢の父母や地域住民が参加した。

 この日は石垣金星地区学対委員長の提案で「バシマムニ大会」が約20年ぶりに復活。小学6年の宜間美咲さん、田原美月さん、中学2年の阿利彩さん、上亀智之君、真謝宗太朗君の5人が、自己紹介や趣味の話、歌などを方言で披露した。

普段は方言を使っていないため、祖父母や地域のお年寄りから教わり、練習を重ね、慣れない言葉にやや緊張しながらも一生懸命に発表。お年寄りは特にうれしそうな様子で聞いていた。

 続いて、老人会の前大用安さん、与那国美津子さんに石垣委員長がインタビュー。2人は昔の暮らしなどについてバシマムニで説明した。

 竹富島出身の與那国充子教諭と石垣昭子さんは、テードゥンムニ(竹富方言)で「ざんぬゆんぐとぅ」を身ぶり手ぶりを交えて熱弁し、会場は大爆笑。

 学校教育部会の報告では、中学校の庄山教務主任が平成20年度の具体的な取り組みや成果、課題を報告した。

 友利義明教務主任からは県PTA塩尻大会に向け、西表校の三大体験事業「紙すき・稲作・海」を中心に、地域との連携を盛り込んだ活動発表があった。

 竹富町教育委員会の前上里徹学校指導課長は、バシマムニ大会に出場した児童生徒の努力を褒めた後、「地域の人の参加が多くて驚いた。石垣委員長は学力向上対策の内容を大変よく理解している。西表校は特色ある学校なのでさらに生かしてほしい」と講評した。

あじまー通信 第2号が届きました

あじまー通信第2号が届きました。

ゆいまーるの集いにも参加されている、石坂蔵之助さんが発行人です。
第二号には私の「住民による自治の実践が島を救う」という文も掲載してくださいました。

そのほか、末吉正幸さんの「わがルーツと屋我地マース」、ゆいまーるの集いに参加している西浜さんの「沖縄線の歴史を書き換えさせてはならない」も掲載されています。

あじま―の会の発起人代表は末吉正浩であり、琉球に関するセミナー、座談会、映画鑑賞会、年4回機関紙発刊を行うそうです。来年1月17日には東京にある沖縄県宿泊所の若夏荘で設立総会を開催するそうです。

問い合わせは03-3341-4808です。

滋賀沖縄県人会・沖縄館でのフィールドワーク

昨日は、龍谷大学経済学部の私のゼミナール生9人と、滋賀県湖南市甲西にある沖縄県人会・沖縄県人会、沖縄館に行き、高間さんからいろいろなお話を聞かせていただきました。

久米島生まれの高間さんが、集団就職でヤマトで働いた時の差別体験などの生い立ち、基地経済の問題性、琉球人と日本人との関係性‥、心が揺さぶられるお話でした。

特に現在、「派遣切り」といわれるように、派遣労働者の解雇問題が深刻になっていますが、滋賀県にも自動車、運送、電気製品など多くの工場で琉球人の季節労働者が働いておりますが、派遣切りの対象になっており、沖縄館が「駆け込み寺」としての役割を果たしているそうです。
また県人会は平和運動、三線教室、文化運動なども行っています。

具体的に琉球人がどのように工場によって「捨てられていくのか」をお聞きしました。現在でも琉球人差別が厳然として行われています。「琉球人保証人お断り」「トイレの琉球人差別落書き」もあります。

早稲田大学で人類館が演劇として再演されましたが、琉球人差別は過去のことではなく、今現在の問題であることがわかりました。

「派遣切り問題」について、沖縄県の大阪事務所の方から高間さんに実情の問い合わせがあったそうですが、話を聞いたあと「がんばってください」とだけ言ったそうです。行政はこの問題にたいして実質的には何もせずに、高間さんにすべてを任せようとしています。

沖縄県知事は愛知のトヨタに行って派遣労働者の解雇をしないように要請したようですが、解雇された労働者に対して具体的にどのような支援を行うのでしょうか。

学生たちも熱心に聞き入り、質問をしていました。社会の実情を知ることができたのではないかと思います。

お話を聞いたあと、沖縄館で琉球特産物を買いました。また高間さんから映画「月桃の花」の本、サーターアンダギー、ブルーシールアイスクリームの飴玉などを学生全員にいただきました。

沖縄館でのインタビューのあと、場所を南草津の琉球料理店にうつして食事会をしました。学生たちも
おいしそうに料理を食べていました。高間さんともお話の続きをして楽しく過ごしました。

高間さんには大変お世話になりました。心よりお礼申し上げます。

「内発的発展」とは何か

私が早稲田大学の学生であったころから、現在までお世話になっている川勝平太先生より、『「内発的発展」とは何か』藤原書店を送っていただきました。心よりお礼申し上げます。

同書は川勝先生と鶴見和子先生との対談を中心として本であり、島の内発的発展について学ぶ私としては大変、示唆に富む内容でした。

鶴見先生との学生のころに西川先生の授業で公演をされた際にお会いし、他の学生といっしょに、
アイヌ料理「レラチセ」で食事をしたことがあります。

同書において、内発的発展論がさらに深められ、自らの生が内発的発展が一体化している様を鶴見先生の晩年から知ることができます。

本書の構成は次の通りです。






詩学(ポエティカ)と科学(サイセンス)の統合。
「私は、詩学(ポエティカ)のない学問はつまらないと思ってるの。私の基礎というのは、やっぱり歌のなかにある。」(鶴見和子)

「日本の学問は、形式倫理学的な構築物だけでなくて、そこに美学ないし詩学が統合されたものになるだろう。」(川勝平太)


まえがき 川勝平太
内発的発展論の可能性 川勝平太

第一場 方法としての類推
 相対化する視点
 個体発生と系統発生

 方法としての類推
 今西錦司のカゲロウと南方熊楠の粘菌
 自己を発展させる学問としての内発的発展論

 人間は棲みわけを破壊し得る
 「変化する形」の論理
 全体と部分の関係

 萃点は移動する

第二場 地域から地球へ
 地域の内発的発展
 地球の中の地域として

 開かれた地域学を
 同時多発的に独立発生する内発性
 論理学の問題

 辺境からの創造

第三場 新しい学問に向けて
 インターディシプリナリーという方法
 美学の総合を

 極限状況の中から
 学問の環境を生かす

第四場 萃点の時空
 曼荼羅について
 萃点は遍在する

 宇宙の中の自己
 ワタを萃点として歴史を語る
 必然と偶然

 主体的自己運動が進化を
 生きているものにとって空間・時間は従属変数である
 一即多、多即一となる

第五場 創造の秘密
 創造するとは
 宮沢賢治の世界

 自分の言葉で書く
 だんだん現れてくる芽を見落とさない

第六場 生かし生かされる
 生かすということ
 主客未分の考え方

 自由と道徳の問題
 ウグイスの死に学ぶ

第七場 萃点としての人々
 スピノザなど
 佐佐木幸綱さんのこと

 おばあさん仮説と母系
 南方熊楠とプリゴジン
 萃点としての編集者

志をつぐ――対談を終えて 川勝平太


琉球人季節労働者の解雇問題

12月19日の沖縄タイムス紙に知事がトヨタに雇用確保を要請したとのニュースを伝えていますので、お伝えします。県は失業率減少のために若者の県外就職を進めていましたが、景気悪化にともない、解雇の対象として派遣、季節労働者がターゲットになっています。

私が住む滋賀県にも多くの工場があり琉球からたくさんの労働者が働きに来ております。湖南市にある沖縄県人会・沖縄館の高間さんたちは、このような琉球j人たちをサポートしております。明日は、学生たちとともに、高間さんに多くの話を聞きに行く予定です。



県人の雇用確保を/雇い止め急増/知事、トヨタに要請

正規雇用者の雇い止めや解雇の急増を受け、仲井真弘多知事は十八日、愛知県豊田市のトヨタ自動車本社を訪ね、県出身者の雇用確保などを要請した。

トヨタ側の意向で非公開だった。仲井真知事によると、同社は小澤哲専務らが対応。雇用が切れる際の一時金支給や、グループ会社内での求人紹介、契約満了後の一カ月の宿舎利用などが説明されたという。

 仲井真知事は「雇用が継続できない場合は、次の職が見つかるまで宿舎を貸していただくことなど、いろいろお願いした」と説明した。

また「トヨタ以外の自動車産業、また別の産業、地域もある。県内の企業誘致での雇用確保や、政府の打ち出している対策の活用を含め、企業を回りたい」と、今後も要請活動を継続する考えを示した。

 愛知県は、今年一―十月の十カ月間に、沖縄労働局の紹介で県外へ一時的に就職した出稼ぎ労働者四千二百八十三人の就職先の六割を占める。

沖縄県によると、トヨタ本体には期間従業員約百七十人が在籍しているという。

 十九日は刈谷市のデンソー本社を訪ねる。仲田秀光観光商工部長が同行している。


北部振興事業による琉球内の対立

12月10日の八重山毎日新聞に北部振興事業により伊江島に黒糖製造工場が建設されることに対して、竹富町の黒糖製造工場が反対しているという内容の社説が掲載されていますので、お伝えします。

基地が存在する地域に対して補助金を提供する政策を日本政府は行っていますが、それにより琉球間の地域対立が生じ、黒糖製造協会が分裂し、竹富町サトウキビ農家の不安が増しているのです。



伊江島工場建設で市場の混乱はないのか

JAおきなわ(県農業協同組合)が伊江島で計画している黒糖工場建設に竹富町の3工場が激しく反発。

県黒砂糖工業会も反対を決議したことから、JAが同会から脱会を通知するなどの対立にまで発展している。

しかし一方でWTO(世界貿易機関)交渉の結果によっては、サトウキビや肉用牛という沖縄の基幹作物が壊滅的な打撃を受ける危機的な状況下で、むしろ地元は結束しなければならない時期だけに双方に冷静な対応が求められる。

■竹富町3工場が反対
 伊江島にはもともと白糖を作る分みつ糖工場があったが、花きや野菜、葉タバコなどへの転作が進み、03年を最後に工場を閉鎖、具志川の工場に海上輸送することになった。

しかし農家の間には花きなどの価格低迷などで工場再開の要望が強まったことから、米軍基地の見返りである北部振興事業で黒糖の含みつ糖工場を建設することになり、現在JAが本年度で実施設計、来年度建設で計画を進めている。

 その間、一時は液糖・紛糖の加工場を模索したが、結局は採算面から黒糖に参入することになったようだ。

 これに対し竹富町の波照間、小浜、西表の3工場が、「新しい工場ができると市場で製品がだぶついて価格低下を引き起こし、工場や農家を苦境に追い込む」と猛烈に反対。

さる1日には竹富町議会も工場側の要請を受けて臨時議会で反対を決議。3日には川満町長も一緒に県や県議会、沖縄総合事務局に反対要請を行っている。

■JAが工業会から脱会
 一方同3社に加えて、多良間に工場を有する宮古製糖、そして傘下に与那国、伊平屋、粟国の工場を有するJAで構成される県黒砂糖工業会も、先月12日の理事会で「市場の需給バランスが崩れている中で新たな工場参入は危険が大きすぎる」と、JAのみ賛成の5対1で反対を決議している。

 これに対しJAも、先月21日の会長・理事長会議で離島7工場のうち3工場を運営しているが、黒工会の中で意向が十分反映されているといえず、メリットが見いだせないとして12月での脱会を決め、新たに企業系会社とは別に伊江島を加えたグループ4工場で沖縄黒糖振興会(仮称)を立ち上げると竹富町議会にも28日付で通知した。

 確かにJAとしては園芸作物や葉タバコの経営が厳しい中で、今一度キビとの輪作体系で伊江島の農業を振興したいという思いは十分理解できる。

一方でJAには説明責任がある。竹富町の3工場は新たな参入に不安を抱えており、その不安解消のためのきちんとした説明責任があるということだ。

■市場は本当に大丈夫か
 それはまた西表、波照間、小浜の生産者も同じJAの組合員であり、生産者は市場の混乱で島の農業が崩壊することを切実に恐れている。JAは伊江島だけに肩入れすべきでないだろう。

 特に黒糖市場は工場が独自に販売努力し、価格は供給量の増減で大きく変動。さらに制度的にも、白糖に比べてしっかりとした国の保証制度があるわけでなく、そういう意味では八重山の離島農業は黒糖を中心としているだけに不安定な状況にあるといえよう。

 それだけにJAは、伊江島に工場を建設して本当に市場は大丈夫なのか。JAがいう今後の国内市況の拡大対策や制度見直し・予算要求等の農政運動など、その具体的な説明がほしい。これらの説明で黒工会側の理解が得られれば伊江島の工場も建設可能となる。双方の冷静な努力を求めたい。

前利さんの「<無国籍>地帯、奄美諸島」が届きました

前利さんが書かれた「<無国籍>地帯、奄美諸島」が収められている『反復帰と反国家』社会評論社を、前利さんより頂戴いたしました。

心よりお礼申し上げます。


前利さんのご論文の構成は次の通りです。

1占領と帰属意識 
 「琉球諸島」と奄美諸島、戦略的道具としての奄美諸島

2国民国家への包摂
<日本人>という自己認識、国民国家への包摂過程、琉球処分と奄美諸島、近代における<無国籍>

4島尾敏雄と奄美諸島
ヤポネシア論と奄美諸島
<奄美>から<琉球>へ

おわりに―「周縁」から「境界」へ


前利さんの専攻は経済史ですが、その学問的土台を踏まえて、斬新な視点で奄美諸島論を展開されています。皆様もぜひ、お読みください。


泡瀬開発問題

11月28日琉球新報に泡瀬埋め立て問題についての記事がありましたので、ご紹介します。
住民の意思を無視して開発が行政権力によって実施されようとしています。



 
東部海浜開発事業への公金支出差し止めを命じた那覇地裁判決に、県と沖縄市が控訴を決めた。

司法判断に抗し、控訴取りやめを求める市民の声にも抗しての控訴決定だ。控訴を決めた県や市は、国と共に2つの義務を負う。

1つは司法が求めた公金支出による埋め立て事業への「経済的合理性」の明確化。2つ目は、地裁判決の欠陥とも指摘される干潟埋め立てを容認した「環境アセス」の正当性の明確化だ。

 地裁判決は、経済的合理性のない公共事業の実施を禁じる判断を下した。船が寄港しない港、採算割れの空港、通行量の少ない道路、赤字を垂れ流す巨大施設の建設など、これまで放置されてきた「公共事業の費用対効果」「官の執行者責任」を問うている。

 東部海浜開発事業は、県、沖縄市ともに約280億円前後の事業費が想定されている。資金は起債、つまり借金で賄われ、将来にツケも回る。決定の責任は重大だ。

 国、県、市が進める「開発事業」を、中止を求める原告らは「泡瀬干潟埋め立て事業」と呼んでいる。

 「開発」主眼の行政と、干潟の「埋め立て」による自然喪失を懸念する市民との乖離(かいり)が呼称にも鮮明に表れている。

 貴重な干潟の保護、破壊への懸念に対する答えは、環境アセスの厳格な実施で示されるべきだ。

 だが環境学者らは「泡瀬埋め立ては過去のずさんな閣議アセスで決定された」と指摘している。
 ザル法が貴重な自然・資源を見落とし、地裁判決も見落としを見抜けない「欠陥判決」とされる。

 覆水盆に返らずだ。将来に禍根を残さぬよう市民、県民の立場からアセスの検証も必要だ。

 今回の控訴決定に際し、県は「県議会提案」を省き、執行部だけで判断した。これは議会制民主主義の形骸(けいがい)化、議会軽視、執行権の乱用ではないか。

 司法が知事、市長に歯止めをかけた。執行部の暴走を抑え、血税の使途を監視する役割を担う議会だ。こんな時こそ出番だ。県民のために職責を果たしてほしい。



東京ではありがとうございました。

東京では、多くの方と出会い、お世話になりました。心よりお礼申し上げます。

まず、藤原社長、西さん、小枝さんと、来年創刊予定の雑誌と書籍について話し合いました。
来年は島津藩の琉球侵略から400年、琉球処分から130年という節目の年であり、これまでの近代化の意味を考え、これからの自治の道を歩むための雑誌を藤原書店から発刊する予定です。楽しみにしてください。

話し合いの後、四谷にある韓国料理に行きました。新し料理店であり、韓国系の本を出版している高さんが経営されています。大変、おいしく、もう一度来たいと思いました。藤原社長はじめ社員の皆様、感謝申し上げます。

早稲田大学では、300人近い学生さんが静かに授業を聞いてくれました。また、多くの学生が質問してくれました。

私の『琉球の「自治」』を読んでいるという学生(琉球出身)がたくさん付箋が貼られているその本を見せてくれました。「琉球の経済学」をつくるためにはどうしたらいいか質問してくれました。琉球ですでに調査活動をしている学生もいるなど、多くの学生から刺激を受けました。

社会学研究学院の多賀先生をはじめとする同授業の準備をされた皆様にお礼申し上げます。

午後3時ごろ、駒込の琉球センターどぅたっちにつきました。そこには上村英明さんと、学生さんたちが来て島袋さんの話を聞いていました。来週、琉球に行くそうです。ある女子学生は、カンカラ三線に大変興味をもち、音楽が琉球の生活の一部になっていることに感心しているようでした。

島袋さんと会場設定し、6時からトークを始めました。最初はトークのみ、そしてスライドをつかって今の琉球の姿をお見せしながら話をしました。最後に、会場の皆さんとの質疑応答をしました。その終了後、何人かで食事、飲み会をしました。

与論島クオリアの喜山さん、喜久里さん、石坂さんも来てくれました。その他の方々とも出会い、交流し、楽しく、また、多くを学ばせていただく時を過ごしました。

島袋さん、太田さん、ありがとうございました。

今日から東京に行ってきます

今日から東京に行ってきます。
明日は、午前中は早稲田大学での講義、夜は、琉球センターどぅたっちでのトークです。
学生や社会人の方との熱い議論ができそうで、大変、楽しみです。

今朝、那覇に住む両親と電話ではなしたとき聞いたのですが、NHKのラジオ番組で午前4時に、石垣島出身の前嵩西一馬さんが「人類館」について話されていたそうです。
来週は早稲田大学で人類館の上演が行われます。

人類館については、大阪大正区の金城馨さんたちが協力して上演を行いました。人類館事件、同事件が現代の琉球や日本にとってもつ意味などについて深く論じた本としては、本ブログの本コーナーでも紹介している『人類館―封印された扉』を推薦したいです。

是非、お読みください。

与論島の生死観

12月3日の南海日日新聞に与論島の生死観について興味深い記事が掲載されていましたので、お伝えします。
近代化の嵐の中で、島の貴重な生活習慣を守り続けている与論島の人々の生き方は敬服に値するものだと思います。この研究内容に関して、喜山さん、何かコメントなどがあればお送りください。




 鹿児島民俗学会の例会がこのほど鹿児島市であり、沖縄キリスト教学院大学の近藤功行教授が与論島の人々の死生観について発表した。

祖先と再会する場として洗骨儀礼が今も残る与論は「魂の島」とも呼ばれ、自宅で死を迎える人の割合が多い。

一九八六年から与論島で調査研究している近藤氏は、在宅死の多い背景に「与論神道」による祖先崇拝の強い信仰があり、島の生活では死後の社会と現代社会がつながっていることなどを指摘した。
 
近藤氏は、九六年に与論島に総合病院が開設されたことで在宅死の割合に変化が見られるかという調査を六年間実施した結果、死亡者の約八割は自宅に戻り最期を迎えており、病院での死亡は交通事故や不慮の事故などのケースがほとんどだったと報告。

「近代化が進む中にあっても、最期は自宅で迎えたいという島の人の考えに変わりはない」と説明。

 また与論の在宅死を支えている背景には、死者は守り神となると考える島独特の「与論神道」の存在があると指摘し「与論では家の中や墓地にも神が存在し、生活の中で常に神が見守ってくれているという考えがある」

「祖先を敬い大切にする考えは隣接した沖縄よりも鹿児島に近いのかもしれない」などと述べた。
 このほか、与論島の洗骨習俗は、明治期の風葬禁止令で土葬に移行する際に始まったという説があることも紹介した。

琉球のホームレス問題

12月10日の琉球新報にホームレス問題に関する記事がありましたので、お伝えします。
派遣、季節労働として大和に来ている琉球人が解雇され、島に戻りホームレスをせざるおえない状況に追い込まれている人々が増えています。



雇用情勢の悪化などを受け、県内のホームレス支援団体が提供する宿泊施設の入居者が増加、満室状態となり、新たな受け入れができない状況に陥っている。

ホームレスの自立支援に取り組む民間非営利団体(NPO)プロミスキーパーズ(西原町)の寮には定員54人に対し、9日現在、95人が入所。

愛知県で「派遣切り」に遭った人からの問い合わせも寄せられているが、施設は現在「パンク状態」。身寄りのない高齢者や生活困窮者らを支援する特定非営利活動法人(NPO法人)みのりの会(那覇市)の施設も、定員(37人)満杯の状態が10月から続く。

 那覇市内の公園でホームレスの巡回指導に当たる同市福祉政策課では「年明けには愛知などでの派遣切りの影響も出てくるのでは」と失業によるホームレスの増加を懸念。

両団体は「民間の活動では限界がある。行政も何らかの支援を考えてほしい」と訴えている。

 プロミスキーパーズでは9月から入所者が急増。再就職が難しい50代後半の入所者が多い。自立支援と資金造成のため取り組む古紙や空き缶の回収が、金属や古紙の価格暴落で大打撃を受け、資金面でも厳しい運営を迫られている。

 プロミスキーパーズの山内昌良代表は「愛知から『行く所がない』という県出身者の問い合わせも増え、今までにない厳しい状態。活動への寄付や行政からの資金面、再就職支援をお願いしたい」と説明する。

 みのりの会の玉木勉理事長は「仕事も住む所もないという若い人の問い合わせも多い。生活保護を受けている高齢者にはさまざまな支援が必要で、人的にも資金的にも運営は厳しい。行政が宿泊施設を確保してほしい」と話す。

 市福祉政策課によると、市内のホームレスは10月1日現在117人。伊志嶺勉巡回指導員は「1人が公園生活から脱却すると、新たな野宿者が1人増えるような状況で横ばい状態」と説明する。

生活保護申請の相談や安価な簡易宿泊所への案内に取り組むが、抜本的な対策には至っていない。

 同市保護課によると、12月3日現在、ホームレス関係の生活保護に関する新規相談が14件(2007年度5件)、保護開始が11件(同5件)あり、相談は年々増加。

川満幸弘参事は「セーフティーネットの生活保護は最後のとりで。低所得者や生活困窮者をどう救うか対策がうまくいかなければ、ホームレスは増加するだろう」と説明する。

 1年前から市内の公園でホームレス生活をする男性(65)は「板前として東京や長野、県内などで働いてきたが、今は仕事もなく、やむを得ずここにいる」と話した。

竹富島の水牛車営業所問題

12月6日の八重山毎日新聞に竹富島の水牛車営業所問題についての記事がありましたので、お伝えします。この件については、先月のゆいまーるの集いで上勢頭さんが報告されていました。地域の自治の力でこの問題を解決してほしいと思います。




竹富観光センター(小底朝吉代表)の水牛車営業所移転問題の円滑な解決に向け去る6月23日に協定書を結んだ竹富町(川満栄長町長)と竹富公民館(宇根勝末館長)、竹富島の聖域と文教地区を守る住民の会(大山栄一会長)、同観光センターは5日午後、竹富島のまちなみ館で意見交換会を開き、同協定の実行に向け意見を交換した。

同問題は、同水牛車営業所の移転場所が保育所や小中学校に隣接していることなどから同住民の会が反対運動を展開。町や公民館を巻き込んだ問題に発展していた。

 このため、竹富島の良好な地域環境の確保と秩序ある町並み空間を守るため、去る6月23日に4者で協定書を締結。協定書のなかで町が3者と協議の上、水牛車営業所移転敷地の確保に努める代わりに、同センターは現営業所の移転を約束した。

意見交換会では、同営業所の移転先として町が提示していた島の東側の集落外にある残土置き場(町有地)について、同センターの小底代表が「集落の外側は(水牛車観光の)コースが成り立たない」と難色を示し、新たな場所の提示を求めた。

富本傳総務課長は「具体的にここだという場所があるのか」と質問。小底氏は「3年間、当たるだけあたってきたが、ダメだった。1人で探す場所はもうない」と話し、やむなく現在の場所に移転してきたことを強調。

 公民館も「05年度にあちこち回ったがOKを出したのは1カ所だけで、残りはだめだった」過去の経緯を説明した。

 阿佐伊孫良氏は「伝建地区であり、住民は誰もが今の場所は(水牛車営業所として)ふさわしくないと思っている」。

宇根館長が「住民も移転するまでの間として我慢している。これは小底さんも理解していると思う」と話し、出来るだけ早く4者で協議し、新たな移転場所の確保に全力を挙げるべきだとする考えを示した。

 これに川満町長は「この問題は放置してはおけない。関係する課長を連れてきたのはこの問題を早めに解決したいという決意の表れ。回数を重ねながら前進させたい」と、問題の早期解決に決意を示した。

 また、意見交換会の席上、同住民の会の大山会長が川満町長に対し4者が結んだ協定書の順守を要請した。

西浜さんから沖縄通信65号が届きました

大阪の西浜さんから、「沖縄通信」第65号(2008年12月)が届きました。ゆいまーる会議の部分をご紹介します。




1.11月14日(金)~16日(日)に、「ゆいまーる琉球の自治in西表島」が開かれる。

龍谷大学の松島泰勝先生が主宰する「ゆいまーる琉球の自治」の4回目の集いが、11月14日(金)から16日(日)まで西表島の祖納(そない)で開かれ、参加しました。

昨年11月に奄美大島の宇検村で持たれた2回目の集いの報告は『沖縄通信』53号(2007年12月)に、今年3月に伊江島で持たれた3回目の集いの報告は同57号(2008年4月)に、それぞれ載せていますので参考にして下さい。

今回の集いでは、①船浮公民館・嘉目信行(よしめ のぶゆき)館長が、本土リゾート開発企業による船浮地域の土地買い占めについて ②祖納公民館・石垣金星館長が、八重山諸島、西表島が抱える諸問題と自治の実践について報告しました。

ヤマトゥでは実感できませんが、八重山では公民館長は行政職として権威があり、集落の民衆から信頼される人が就任するとのことです。ぼくは石垣金星さんとは初対面ですが、書物を通して大柄な人と想像していました。ところが160cmもない小柄な方でした。でも巨人のような人物でした。

そのほか、③石垣島島民会議・鷲尾雅久事務局長が、石垣島の乱開発の現状と島民会議の活動について ④竹富島喜宝院蒐集館・上勢頭芳徳館長が、竹富島のまちなみ保存と今後の課題についてなどを報告しましたが、ここでは船浮について報告します。

 船浮は西表島ですが船でしか渡れません。人口は42人。小中学校の生徒4人で、車もなく手つかずの自然が残る地域です。

その船浮でも最も美しいイダの浜を含む16.5ヘクタールが、今年5月から宮古・八重山でリゾートを施設経営するユニマットグループの所有になっていたことが分かりました。集落より北の大部分が、住民の知らぬまにユニマットの手に渡っていたのです。

もともとは集落の共有地にしていたものが、戦前、税金の関係で一部が個人に売却され、長く那覇の資産家が持っていましたが、今年4月に石垣の不動産会社が買い取り、翌月にユニマットに転売されたものです。

住民が畑として使っていた個人の所有地も囲まれた形です。西表は世界遺産の登録に向けた調査予算がついたばかりで、衝撃は島全体に及んでいます。

ユニマット不動産は「まだ事業計画はない」としていますが、一説には10階建ての大型ホテルの構想があるといわれています。既にその休憩所が公民館の許可を得ずに建設され、その時、1957年に県が天然記念物に指定したヤエヤマハマゴウの群落1本を残してすべて伐採しました。

嘉目館長は「小さな島の住民がバラバラになっている。静かな自然を残す部落にしたいが、まだ、大げさに反対運動をするまで住民がまとまっていない」と述べ、参加者に助言を求めました。

これに対し、参加者から「外部に船浮の自然を守る会などを立ち上げ、地域と連携しながら(反対運動を)やっていけば良いと思う」などの意見が出されました。


東京で講義、トークを行います

今週12月13日、2つのイベントがあります。

今週12月13日10時40分より、早稲田大学において、「21世紀世界における戦争と平和」の連続講義の一つとして、私が「島の開発、自立と平和-沖縄の事例から-」という題で話をさせていただきます。

同日、午後18時より、東京駒込にある琉球センターどぅたっちにおきまして、「琉球の自治と独立」と題して、私が話をします。島袋陽子さんの企画提案です。同センターの島袋さん、太田さんには私が学生の頃からお世話になっています。

リンクにある琉球センターどぅたっちもご覧ください。

学生、社会人の皆さんと真剣な、有意義な議論ができれば幸いです。熱い1日になりそうです。
お時間がありましたら、ぜひ、お越しください。




ゆいまーるの集い 西表島 13

前利さんからお送りいただいた写真をご紹介します。
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イリオモテヤマネコの最大の死亡原因は交通事故です。レンタカー等、島に観光客が増えるにつれてひき殺されることが多くなりました。このままでは世界的にも貴重な動物種が絶滅してしまいます。

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浦内のリゾート、ニラカナイの近くに掲示された看板。観光客はこの看板を見ながら観光をすることになります。カネの力で住民の声を封じ込めることはできません。西表島を守る運動は学会のみならず、日本中、世界中に広がっています。

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南海日日新聞の一面に西表島の集いについての記事が掲載されました。

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同紙の久岡さんのお心遣いで一面での掲載が可能になったと思います。心より感謝申し上げます。

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「宣言」についても言及してくださいました。来年5月には沖永良部島で、島津侵略400周年記念シンポジウムと抱き合わせて、集いを開く予定です。前利さん、よろしくお願いします。

<無国籍>地帯、奄美諸島 5

4.近代における<無国籍>
(1)一字姓と<国籍>

・本土への進学、入営(徴兵)の場で、奄美諸島独特の一字姓ゆえに、<日本国籍>が疑われた。
・関東大震災のときに朝鮮人や中国人にまちがわれたことから、<日本>的な二字姓に改姓が進む。

・米国占領下では日本国籍法が適用されず、改姓の手続きも簡単であったことから、さらに改姓が進む。

(2)カトリックの招へい ※現在、奄美大島におけるカトリック信者は、人口の約5%だといわれている。
・フェリエ神父、布教開始(1891年) → 信者4,057人(1923年)、人口53,495人(25年)の7.6%。

・「岡程良が、島の新しい精神的支柱を日本本土の伝統的なものに求めず、西洋の宗教に期待の手を 伸ばしたことは、彼が若いころ儒学をきわめた人であるだけに、島の人間としてのヤマトにたいする深い 絶望感を示している」「薩摩藩いらいのあくどい収奪と搾取の、まだ生々しい記憶が、本土のすべてのものにたいする不信と反感をつちかった、という背景もある」(小坂井澄著『「悲しみのマリア』の島)

・「佐賀に左遷させられる前、程良は、島の振興にはまず、万民は平等であるという西洋思想が必要と考え、島の有志らとともに鹿児島県本土のキリスト教各派に奄美での布教を要請する」「程良は、宗教としてではなく思想としてキリスト教に期待を寄せていたのだろう」(宮下正昭著『聖堂の日の丸』)

・4年生のミッション系スクール大島高等女学校開校(24年4月) 

・古仁屋に陸軍要塞司令部開設(23年) → 天皇の来島(27年) → カトリック排撃運動(「非国民」)

・「民謡の如きもあまりに退廃的亡国的な声調に流れるようなものは貰いたい」(昭和天皇に拝謁した東京在住の喜界島出身実業家)

(3)アナーキストによる大杉栄追悼記念碑の建立(24年) ← 要塞司令部のある大島南部の海岸
・奄美は保守的な鹿児島県のなかにあって、社会主義、共産主義思想の活動が比較的活発な所だった。

 藩政時代の薩摩藩による搾取、明治維新後も続いた差別的な処遇、そして貧困、離島という地勢的な問題 も影響したのだろう。特にアナーキストと称されたグループは、主に奄美大島第二の町、古仁屋にいた。

 前述したように大正12(1923年)6月の第一次共産主義者一斉検挙の時、鹿児島県内で唯一当局のリストに載っていたのは、古仁屋の武田信良。大杉栄虐殺事件の一周忌に古仁屋近くの蘇刈海岸に記念碑を立て問題を起こしたのも武田らのグループだった。(宮下)

・古仁屋のアナーキストは敗戦後の「無政府」状態下 → 旧日本軍人に対する人民裁判

Ⅳ ヤポネシア論の受容の仕方
1.沖縄と奄美におけるヤポネシア論の受容の仕方の違い
 沖縄側はヤポネシア論を、日本という国家に包摂されることを拒否する思想として受容したのに対し、奄美側はヤポネシアと視野を広げることによってはじめて、「奄美」を日本という国家に正当に包摂することができる思想として受容した。

2.足場としての奄美諸島~<奄美>から<琉球>へ~
※「琉球弧の島々が、日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であった」(島尾敏雄「奄美―日本の南島」)

(1)カトリック ※安齋伸著『南島におけるキリスト教の受容』(第一書房、1984年)
・47年9月、カプチン会(ミシガン州)の神父2人が、廃墟の那覇に上陸 → 確認できた信徒は母子2人

・10日後、カトリックの地盤がある奄美大島(名瀬)へ → 信徒、軍政府、群島政府らが出迎え(200名)

・沖縄宣教の準備(奄美大島) → 再開(49年) → 多くの奄美大島出身の青年信徒が沖縄各地へ
・沖縄全土を管轄する那覇教区の要職、女子修道会には奄美大島出身者が多かった。

(2)非合法共産党 ※森宣雄「越境の前衛、林義巳と『復帰運動の歴史』」、国場幸太郎「『沖縄非合法共産党文書』研究案内ノート」

・奄美共産党(47年結成)の林義巳(笠利村出身)、琉球人民党の中央常任委員として渡琉(52年3月)。

・林には沖縄に非合法共産党を建設する任務が与えられていた。 ※瀬長亀次郎は反対

・林ら奄美グループが中心となって、戦後沖縄初の大規模労働争議、日本道路社ストを決行(52年6月)。
・ストの成功によって、国場幸太郎と瀬長亀次郎が会談、非合法沖縄共産党の創設に合意。

・「奄美共産党は、結成の当初から、(中略)多分に日本共産党から影響を受けていた」(国場)
・沖縄人民党は「日本共産党から影響を受ける関係にはなく、(中略)独自の道を歩いていた」(国場)

(3)太宰府の出先機関(喜界島の城久遺跡群) ※千年前の奄美諸島
・城久遺跡の発掘調査から、同島に太宰府の「出先機関」があった可能性が出てきた。

・ヤコウガイの大量出土遺跡(奄美大島)、琉球弧全域を交易圏としたカムィヤキ古窯跡群(徳之島)。

・日本の古代、中世国家の強い影響下にあった奄美諸島北部 → 琉球弧のグスク社会形成へ刺激

おわりに~「周縁」から「境界」へ~
(1)高梨修著『ヤコウガイの考古学』(05年) ※「奄美諸島史のダイナミズム」(高梨)

・琉球弧のこれまでの歴史学研究は、琉球王国論に収斂される潮流が支配的だった。
・奄美諸島は、二重構造の国家境界領域 → 琉球からも大和からも周辺地域として位置づけられてきた。

・琉球王国が奄美諸島を領域化する以前、日本中世国家の領域は奄美諸島まで押しひろげられた。

・「南方物産交易の拠点としての奄美諸島」「喜界島・奄美大島東海岸における政治的勢力の存在」

・国家周辺地域は、静態としてとらえるならば「辺境(マージナル)」という理解になるが、動態としてとらえる ならば「境界(フロンティア)」という理解も生まれてくる。

(2)高橋孝代著『境界性の人類学』(06年) ※「(沖永良部島の)ダイナミックな歴史」(高橋)
・「日本」「鹿児島」「奄美」「沖縄」の周縁に位置づけられてきた沖永良部島 → 中心に据える

・沖永良部島は、「日本/沖縄」「鹿児島/沖縄」「奄美/沖縄」の境界を創り出している。
・「日本/沖縄」の境界 → 「日本(ヤマト)/沖縄(ウチナー)」のエスニシティの境界

・「鹿児島/沖縄」の境界 → 「薩摩/琉球」の権力のせめぎあいによる政治の境界
・「奄美/沖縄」の境界 → 奄美諸島内部の文化の象徴的境界

・沖永良部島民のアイデンティティの複雑性、混淆性 → 「適応戦略」の所産
・沖永良部島民のアイデンティティ研究は、グローバル化に伴い種々の境界が薄れていく今日、世界各地 にある文化的融合点(境界地域)の文化体系の新たな枠組みを提示できるという、普遍性をもつ。

<無国籍>地帯、奄美諸島 4

(3)背景としての近世
①進貢貿易を通して「中国化」を進めた沖縄

・進貢貿易の中心的な担い手 → 華人の末裔である「久米村人」 ※王府の進貢貿易振興策
・国王や世子への進講 : 近世初期(薩摩から渡琉した僧や儒者) → 後期(久米村人)

・官生制度 → 中国の最高学府である国子監への国費留学生 ※自決した林世功(亡命琉球人)
・琉球館があった福州への自費留学 → 王府の許可が必要(王府の官僚予備軍)

②薩摩支配を通して「ヤマト化」を進めた奄美諸島
・近世初期(琉球時代の統治体制を温存) → 「置目之条々」(1623年) → 琉球との関係を切断
・沖縄系出自の島役人から薩摩系島役人へ権力移動 ※藩役人と島の女性との間にできた子孫

・遠島人(政治犯) → 生計のためにも、島役人層の子弟たちに学問を教えた ※名越左源太
・大島 → 藩政期間に来島した藩役人(約千人)、遠島人(1852年、346人/人口は約4万人)

・優秀な子弟は鹿児島留学 ※「富民の子弟等は12歳より鹿児島に至り学ぶ」(1873年、大蔵省報告)

③沖永良部島における権力移動 ※高橋孝代著『境界性の人類学』、『和泊町誌』歴史編
・琉球時代の統治体制の維持 → 沖永良部島代官所設置(1690年) → 島内権力構造の変化(与人)

・与人: 1690年から1790年(沖縄系7人、薩摩系9人) → 以降、幕末まで(沖縄系2人、薩摩系11人)

・藩政時代の藩役人544人(代官93人) ※大久保利通の父も附役として二度、来島(島に子孫を残す)

・遠島人: 幕末までの一世紀(1772~1869年)に929人 → 代表格が西郷隆盛(1862年)
・初代(73年)の戸長である土持正照 → 幼い頃、鹿児島の父親のもと(土持家)で郷中教育を受ける

④近世における<無国籍>
・冊封使の来琉 → 奄美諸島からも「貢物」を上納(1866年まで) ※進貢貿易には関与せず

・奄美諸島独特の一字姓 → 東アジアの冊封体制下における対外的カムフラージュ(弓削政己)
・沖永良部島民が朝鮮に漂着(1790年) → 「琉球国中山王」の支配下の者、<琉球人>と主張

・沖永良部島民が薩摩の船で寧波に漂着(1773年) → 月代をさせられ、<薩摩人>として対応

3.琉球処分と奄美諸島
 広義の琉球処分は一般的には、1872年9月の琉球藩設置に始まり、79年3月の沖縄県設置を経て、80年の日清間における分島改約案の妥結・破棄、という過程を指している。

(1)琉球処分と鹿児島
①鹿児島藩から明治政府へ提出「琉球管轄之沿革調書」(71年7月) ※廃藩置県の2日前の日付
・政府は廃藩置県によって、ひとまず琉球を鹿児島県の管轄下においた。

・岩倉使節団の欧米への出発(71年11月) → 重要調査事項の一つに「琉球」問題

②鹿児島県の対応(<琉球>に対する既得権益の維持)
・71年8月、大久保と西郷は協議の上、「善後ノ処置ヲ講セシムル」ために、西郷従道らを帰藩させる。

・71年12月、西郷、士族救済のために砂糖独占販売の商社設立に同意(桂久武への手紙)
・72年正月、鹿児島県から琉球藩へ「伝事」→「幸鹿児島之管轄ニ属シ、其段ハ御安心之事ニ候」

・72年前半、大蔵省への伺「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」

③明治政府の対応(琉球と鹿児島県の関係を切断)
・72年9月、琉球王国を「琉球藩」とする(明治政府の直轄) → 琉球王府の外交権は外務省の管轄。

・同9月、伊地知貞馨(鹿児島県の「伝事」)、外務省官員として琉球藩勤務を命じられる。
・同年11月、琉球の租税納入先、鹿児島県から大蔵省租税寮へ変更される。

・73年3月、琉球藩に外務省出張所開設、鹿児島の琉球在藩奉行も外務省出張所勤務→在藩奉行消滅

(2)「大島県」設置構想 ※弓削政己「明治維新と諸制度」(『瀬戸内町誌』歴史編、2007年)
①大蔵省と鹿児島県の対立

・租税の納入方法 → 大蔵省は砂糖現物納、鹿児島県は金納
・士族の救済方法の一方法としての「大島商社」設置問題

②大蔵省の方針
・「当年限り従前之通取計」(72年5月) → 当年に限り、旧藩時代の独占販売体制を認めた
・砂糖の自由売買を布達(73年3月) → 独占販売体制(大島商社)方式の否定

・鹿児島県は、大島商社方式を継続         ※大蔵省による奄美諸島調査(73年から9ヶ月間)

③大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ稟申「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ」(74年9月)
・旧藩時代に民力が「傷害」 → 大蔵省管轄下で砂糖増産、輸入砂糖減少 → 「莫大之国益ヲ増加」

・内務卿大久保の「裁可」が「否」であったと考えられ、「大島県」設置は実現しなかった。
・大島に大支庁、他の四島に支庁を置く(75年6月) ← それまで旧藩時代の統治体制のままであった。

④砂糖自由売買運動(勝手世騒動) ※「大島商社」の解体を目的とした運動
・丸田南里、密航先の英国、上海から帰島(75年初頭) → 組織(主体)的な砂糖自由売買運動を展開

・征韓論争に敗れた西郷、帰県(73年10月) → 「私学校」創立、県下に強い影響力を行使
・丸田南里ら3名、県庁に嘆願(76年4月) → 「棒打の刑に処」せられる → 大島へ、調査団派遣

・55名の陳情団、上鹿(77年2月)→西南戦争(同月)→従軍(35名)→生存者の大半、帰島中に難破

・西南戦争終結後、79年分から砂糖自由売買が認められた(78年7月)。 ※琉球処分(79年3月)

(3)琉球王府、清国政府にとっての奄美諸島
①奄美諸島の返還要求(琉球王府)
・琉球藩設置の際(72年9月)、王府側は「道之島(奄美諸島)」の返還を政府に要求。

・薩摩によって「押領」された「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷属」である。

・副島外務卿は、「宜しく琉球の為めに処置すべし」と空約束。
・琉球側には王国自身が存亡の危機という意識はなく、単に薩摩から解放されたという認識であった。

②琉球三分割案(清国政府)
・琉球処分(79年3月)は、日清間の外交問題に発展 → 前米国大統領グラントによる調停(79年8月)

・琉球二分割案(沖縄諸島以北は日本帰属、先島諸島は清国帰属)で妥結(80年10月) → 破棄
 ※妥結に抗議して、林世功(亡命琉球人、最後の官生)、清国で自決(80年11月)

・李鴻章が予備交渉の場で、日本政府側に琉球三分割案を提案し、拒否されていた(80年4月)。
 ※「北島(奄美諸島)」は日本帰属、「中島(沖縄諸島)」には王国復活、「南島(先島諸島)」は清国帰属

 ※琉球三分割案は復帰運動の嘆願書で、奄美諸島の「日本帰属」を正当化する論拠として使われる。

早稲田大学大隈講堂で演劇「人類館」の上演

勝方=稲福恵子先生より、演劇「人類館」上演のお知らせを頂戴しましたのでお知らせ致します。

私は那覇高校在学中に、「人類館」を見た記憶があります。非常に衝撃を受け、「ヤマトとは何か」を考えた記憶があります。その後、人類館があった場所である、大阪の天王寺動物園周辺を歩き、人類館の現代における意味を考えました。現在も琉球人は檻の中に入れられ、見世物にされているのではないか。

以下は勝方=稲福先生からメールの内容です。入場無料です。お近くの方は是非、見に行ってください。



ご無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃいますか?

1年前から暖めておりました企画をお届けします。
『人類館』(劇団「創造」幸喜良秀演出)の30年ぶりの東京公演です。

日時:12月16日(火)開場17:30 開演:18:30~20:30
場所:早稲田大学「大隈講堂」
入場無料

東京国立近代美術館の「沖縄・プリズム 1872-2008」展(12月21日まで好評開催中)のフィナーレを飾る共同企画で、30年ぶりの、一幕一夜限りの記念すべき公演です。チラシを添付します。

★入場無料のため殺到することが予想されますので、もしご観覧される場合は、「御招待席」をご用意します。ご返信下さいますか?

大隈講堂をいっぱいにしたいと思いますので、回りの方々にもお知らせしていただけると嬉しいです。どうぞ宜しくお願いいたします。

詳しくは、琉球・沖縄研究所のHP http://www.waseda.jp/prj-iros-waseda/ と 東京国立近代美術館の「沖縄・プリズム 1872-2008」展HP http://www.momat.go.jp/Honkan/Okinawa_Prismed/index.html )をご覧下さい。

勝方=稲福 恵子
PS:下記に案内文を載せておきます。
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秋の東京を「おきなわ色」に染めあげる一連の企画は、東京国立近代美術館での大規模な沖縄展(「沖縄・プリズム1872-2008」)で大団円をむかえ、いよいよ「人類館」上演でフィナーレとなる。

「人類館」というのは、一九〇三年の第五回内国勧業博覧会(大阪)に併設された見世物小屋「学術人類館」のこと。

十九世紀以降、近代化の到達点を誇示する西欧が、盛んに万国博覧会を開催したが、日本でもそれにならって、内国勧業博覧会が次々と開催された。

とりわけ、パリ博覧会で植民地人が陳列されたパビリオンをそっくり真似して設営された「学術人類館」では、「アイヌ」「台湾の生蕃」「印度人」「ジャワ人」「バルガリー(インドの部族)」そして「琉球女性(上原ウシ、仲村渠カメ)」が、民族衣装を着せられて陳列された。

当時の琉球新報が、「台湾の生蕃や北海道のアイヌと同列に下等動物同様に見世物として陳列」と抗議の声をあげたことによって、まもなく琉球人の陳列はなくなった。

しかし差別された側が「下位(と考える)の人々」を差別することによって差別構造からひとりだけ抜けようと足掻いたこの出来事は、西欧近代化をいそぐ日本と、その日本への同化政策に踊らされる「沖縄」の悲喜劇として語り継がれ、現代に通低する問題としてさまざまな文脈で解釈されている。

このいわゆる「人類館事件」を題材に知念正真が書き上げ、七六年に発表したのが戯曲「人類館」。人間が人間を展示するという「人類館」を舞台に、近現代の沖縄が経験した苦難の歴史を「喜劇」として描き出したこの戯曲は高い評価を受け、七八年、演劇集団「創造」による東京初演は、第二十二回岸田戯曲賞を受賞した。

今回、再び幸喜良秀による演出で、三〇年ぶりとなる東京公演が、一夜一幕限りで実現する。
たくさんの寄付やボランティアに支えられての公演である。東京県人会のある方は、「人類館」上演を実現するためなら、と年金生活のたくわえの中から多額の寄付を下さった。

「沖縄は、これまでさまざまに語られてきたが、なかなか居心地のいい物語に出会うことはなかった」と。この公演が、沖縄を新しい物語に語りなおすきっかけとなるように、たくさんの方に観ていただき、新たな語り手になっていただきたい。

好評開催中の東京国立近代美術館「沖縄・プリズム1872-2008」は十二月二十一日まで。

劇団創造「人類館」公演は十二月十六日(火)一八時 早稲田大学大隈講堂にて。定員八百名。入場無料。お問い合わせは、

東京国立近代美術館03-3214-2561 http://www.momat.go.jp      
早稲田大学文化企画課03-5272-4783 http://www.waseda.jp/cac/index.htm 


<無国籍>地帯、奄美諸島 3

Ⅱ 国民国家への包摂
1.<日本人>という自己認識

(1)米国海軍軍政府 → 「北部琉球調査隊」を派遣(45年11月) 
・調査隊は覚書で「調査隊全員の一致した結論」として、軍政府の設置に反対を表明。

・大島郡の住民は、あらゆる点で自らを日本人とみなしている。沖縄においてみられるような「沖縄人」対「日本人」という感情は全くない(覚書)。

(2)国場幸太郎(非合法沖縄共産党創設メンバー)からみた奄美共産党(47年4月創設)

・奄美共産党の行き方の根底には、敗戦直後の早くから、「祖国」日本との再結合を希求していた奄美 民衆のナショナリズム(民族主義)がある。

・敗戦後の沖縄民衆には、「日本国民としての民族主義」が崩壊していた。

(3)94年下半期の南日本新聞コラム「南点」(前利潔) → 「奄美人」という言葉に教師から抗議される

・「奄美人・沖縄人」「朝鮮人・半島人」「島人」等が差別用語であった歴史的事実(現教師、M/当時)。

・抗議した元教師、現教師にとって<日本人>になることが、差別からの解放であった。

2.国民国家への包摂過程
(1)地租改正、徴兵制度、参政権

①地租改正
・地租改正条例(73年7月) → 地租改正事業事務局設置(75年) → 改正作業終了(80年)

・<奄美>地租改正再着手(79年4月頃) → 終了(81年7月) ※西南戦争の影響(県、79年1月)

・<沖縄>土地整理事業実施(99年) → 終了(1903年) ※琉球処分(79年3月)→旧慣温存政策

②徴兵制度 → 徴兵令発布(73年1月)

・<奄美>徴兵検査、始まる(79年)  ・<沖縄>徴兵制の施行(98年)

③参政権
・明治憲法と衆議院議員選挙法公布(89年2月)、第一回衆議院議員選挙(90年7月)
・<奄美>第一回衆議院議員選挙、第七区(大島郡)から基俊良(奄美大島)当選。

・<沖縄>衆議院議員選挙法施行(1912年) ※納税制度が未確立(土地整理事業終了、1903年)

(2)学校教育  ※「学制」制定(72年)、教育令(79年)、小学校令(86年)
①沖縄県 人口31万人(79年)
・琉球処分(79年3月) → 会話伝習所設置(80年2月) → 師範学校として教員養成開始(80年6月)

・小学校18校開設(80年) → 53校(82年) ・教員数108人(85年) 

・生徒数 1,006人(81年)、1,854人(84年)、8,817人(89年)、16,775人(95年)、62,246人(07年)

・就学率 3%前後(80年代前半)、12.1%(89年)、24.2%(95年)、52.8%(00年)、92.8%(07年)

・当時の沖縄社会では、学校は「大和屋」と通称され、「大和学問」をさせると子供は家を捨て、大和に 出て行くという噂がたっていた。(小熊英二著『<日本人>の境界』)

・あらかじめ「日本人」である者たちに忠誠心を育成してゆくのではなく、「日本人」という自覚のない者 を「日本人」に改造してゆく作業であった。(同)

②奄美諸島 人口12万人(77年)
・76年には、鹿児島県下に「正則小学校」が普及 鹿児島県師範学校開設(同年3月)

・奄美諸島では77年から83年にかけて、小学校が開設された → 「大島郡」118校(83年)

・教員養成伝習所(名瀬、79~81年)→約200名、同(瀬戸内、80~86年)→約150名 計約350名

・沖永良部島→小学校17校、生徒数933人(77年)、半年間の教員養成講習会(80年)→受講生78名
・泉二新熊(奄美大島出身、1876年生れ、大審院長) ※近代 → 本人の努力で地位の獲得が可能

・法学関係への進学が多く、島の振興に寄与する農・水・林産業等の職業や学校を軽視する傾向。

・「父兄が向学心に厚きは殆んど驚くの外なく、負債を起こして迄も子弟を遊学せしめ」(鹿児島新聞、明治38年)

・「何になりたいか?」(問い)→「日本人になりたい」(生徒) ※大正の初期、奄美大島のある小学校

<無国籍>地帯、奄美諸島 2

4.『在沖奄美人名鑑』(1959年版)~<無国籍>の悲哀~

(1)奄美諸島に対する施政権が米国から日本国へ返還(53年12月25日)されたことによって、在沖縄奄美諸島出身者は、<琉球籍>を喪失し、在留(琉)登録が必要となった。

(2)「外人」としての悲哀
・「外人としての登録制による居住を余儀なくせねばならなくなり」(在沖奄美連合会会長 池田武次)

・「外人としての存在を認識しながら沖縄の復興と発展に寄与してきた」(福井忠義)

(3)「権利の剥奪においては、非琉球人であり、義務の負担においては琉球人並みであった」(新崎盛暉)

①奄美諸島の返還にともなって、泉有平(琉球政府副主席/奄美大島)と池畑嶺里(琉球銀行総裁/奄美大島)は事実上、公職追放となった。

②在沖奄美諸島出身者に選挙権および被選挙権が与えられたのは1968年(主席選挙)。

5.<奄美>という実体はあるのだろうか

(1)島尾敏雄「奄美の呼び方」(59年)

・沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和にはいってからだ。

・それぞれの島はそれぞれキカイであり、トクノシマであり、エラブ、またヨロンであって、観念的にはアマミ の中の一つだと理解しても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこないふうだ。

(2)現在でも沖永良部島民と与論島民の日常会話に出てくる「奄美」という言葉には、自分たちの島のことは含まれておらず、徳之島以北、あるいは奄美大島のことを意味している。

Ⅰ 占領と帰属問題

1.「琉球諸島」に奄美諸島は含まれるのか

(1)GHQ指令「2.2宣言」(46年)によって、奄美諸島は他の北緯30度以南の島々とともに、日本領土から切り離された → 無政府状態 → 「北部南西諸島米国海軍軍政本部」開設(3月14日)

(2)「臨時北部南西諸島政庁」発足(46年10月) ※Provisional Government Northern Ryukyu

(3)奄美大島日本復帰協議会結成(51年2月) → 結成と同時に、署名運動を展開
・14歳以上の奄美諸島住民の99.8%(139,348人)が署名。署名拒否者、56名

(4)対日講和条約調印(51年9月)、発効(52年4月28日) → 「痛恨の日」(奄美連合復帰対策委員会)

(5)「講和条約第三条撤廃」をたな上げにした「実質復帰論(元鹿児島県大島郡の完全日本復活)」の台頭

①奄美人民共和国樹立論(奄美共産党)、奄美独立論(アナーキスト)、宮崎県帰属論、兵庫県帰属論、東京都帰属論。 ← 鹿児島に対する根強い反発   ※沖縄県帰属論はなかった

②参議院外務委員会の公聴会(51年2月6日) → 参考人:昇直隆(曙夢、全国奄美連合総本部委員長)

・「奄美大島諸島」は「薩藩のために沖縄が征服」されて以降、「240年間、全く薩藩の直轄の下に生存 して来た」のであり、明治維新後も「鹿児島県に属する」ようになったのであるから、「純然たる日本領であり、とくに終戦前までは鹿児島県の一部」であった。

・「新聞」が「奄美大島」と「琉球群島」「沖縄列島」を区別していない。

2.戦略的道具としての奄美諸島   ※皆村武一著『戦後日本の形成と発展』(日本経済評論社、1995年)

(1)「戦略的道具としての奄美諸島」(西欧の特派員)

・奄美諸島を一時的に米国の領有とし、必然的に起こる復帰運動は黙認するだけではなく、なんらかの方法であおり立て、最も効果的な時期をねらって日本に返還 → 日本国民の世論を北方領土へ

・参考:ロバート・D・エルドリッヂ著『奄美返還と日米関係』 ※吉田茂首相「バカヤロー解散」(53年3月)

(2)中華民国(台湾政府)、中華人民共和国の見解
①「奄美大島も沖縄とともに中国領」であるという理由から、日本への返還に反対(中華民国、53年11月)

②「中華人民共和国大地図」解説 → 「琉球列島(奄美諸島含む)」は「中国に返還させるべきである」

<無国籍>地帯、奄美諸島 1

2008年10月18日(土)に奄美地区教育研究集会において、前利さんが発表されたレジュメを、ご本人の了解を得たうえで、ブログに掲載いたします。

テーマは、「<無国籍>地帯、奄美諸島」です。

はじめに
※ここでは「国籍」を<帰属すべき場所><国家><実体>という意味で使う。

1.「琉球諸島自治政府」シンポジウム(99年1月、名瀬市) ※講師:吉元政矩(元沖縄県副知事)

(1)「琉球諸島自治政府」――「奄美諸島」「沖縄諸島」「宮古諸島」「八重山諸島」の各自治政府
  ※「琉球臨時中央政府」――「奄美群島」「沖縄群島」「宮古群島」「八重山群島」の各群島政府(占領時代)
  ※奄美群島政府時代(50年11月25日 ~ 52年3月31日)

(2)奄美側のパネリスト → 「本籍は沖縄、現住所は鹿児島」 ※「奄美」という本籍はあるのか?

2.高橋孝代著『境界性の人類学~重層する沖永良部島民のアイデンティティ~』(06年)

(1)著者は1967年、沖永良部島和泊町生まれ。第35回伊波普猷賞を受賞(08年2月)

(2)沖永良部島民のアイデンティティ(600人を対象にしたアンケート)
①帰属意識

<全体>「鹿児島県」47% × 「沖縄県」53%
<知名町>「鹿児島県」37% × 「沖縄県」63%
<和泊町>「鹿児島県」56% × 「沖縄県」44%

②高校野球 ※<鹿児島><沖縄>は、出自を示す

<全体>「鹿児島県代表」27% 「沖縄県代表」29% 「両方」41% 「どちらでもない」3%
<鹿児島>「鹿児島県代表」41% 「沖縄県代表」20% 「両方」39% 「どちらでもない」0%
<沖縄>「鹿児島県代表」11% 「沖縄県代表」54% 「両方」35% 「どちらでもない」0%

③文化的アイデンティティ(どれだけ愛着や親近感を感じますか)
ア.非常に感じる イ.どちらかといえば感じる ウ.どちらかといえば感じない エ.全く感じない

<沖縄の歌、踊りなどの芸能> ア(54.5%) イ(39.3%) ウ(5.4%) エ(0.8%)
<沖縄の言葉> ア(30.3%) イ(53.7%) ウ(13.4%) エ(2.7%)
<鹿児島の歌、踊りなどの芸能> ア(4.7%) イ(30.6%) ウ(48.7%) エ(16.1%)
<鹿児島の言葉> ア(6.1%) イ(25.0%) ウ(42.7%) エ(26.3%)

3.文学にみる<無国籍> ※松下博文(筑紫女学園大学教授)、南方新社『新薩摩学~薩摩・奄美・琉球~』

(1)安岡伸好(喜界島出身)、一色次郎(沖永良部島出身)、干刈あがた(沖永良部二世)
①安岡伸好「地の骨」(芥川賞候補、58年) → 「対薩摩」への怨念の姿勢を崩さない。
②一色次郎「青幻記」(太宰治賞、67年) → 「奄美(沖永良部島)」と「薩摩」と「琉球」で宙吊り。
③干刈あがた「入江の宴」(芥川賞候補、84年) → 父母の地(沖永良部)、<琉球>へ繋がろうとする。

(2)安達征一郎「怨の儀式」(直木賞候補、奄美大島出身、73年)、「日出づる海日沈む海」(同、78年)
 『祭りの海』(87年)は、北緯29度線と30度線で切り取られた敗戦後のトカラ列島が舞台。

米軍統治下にあっても国境や国家原理をまったく無視した糸満漁夫の「回遊魚」的な行動力。「薩摩」とか、「琉球」とかを完全に無化してしまう、壮大なスケールの中に作品は進行する。糸満漁夫は漂白民であり、サバニと櫂さえあれば、どこにでも漕ぎ出してゆく、いわば無国籍者である。(松下博文)

ゆいまーるの集い 西表島 12

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公民館婦人部の女性たちが、交流会のための料理をつくっているところです。大変おいしかったです。

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金星さんのご案内で、祖納の海岸の近くにある井戸の由来について聞いています。島社会にとって井戸が非常に大切なものであったことを改めて実感しました。

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村の聖なる場所であるオンについて説明をされています。オンの由来を聞くことにより、村の成り立ち、数百年にわたり人びとが大切にしてきた価値を学ぶことができました。

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この場所から与那国島が見えると聞いて、みんなで水平線のかなたを目を凝らして見つめているところです。見ることができるほどの距離であったのだなと実感。

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皆様には見えますか、与那国島が。私が与那国島に住んでいたころ、島から台湾を見た記憶があります。

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金星さんの唄からは、島の体温がそのままつたわってきます。藤原社長も気持ち良さそうに太鼓をたたいています。

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西浜さんも舞台で踊り始めました。

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