8月23日の八重山毎日新聞に「岡部伊都子のいぶき」と題する社説が掲載されていましたので、ご紹介します。摩文仁での集いも言及されています。
摩文仁での集いは、海勢頭豊さんが企画をし、中心になって実現させました。海勢頭豊さんの岡部さんに対する熱い気持ちが伝わります。
あついかかわりを通して
■大阪生まれ
岡部伊都子さんが逝去してから3カ月余になる。きゃしゃな体にやさしい笑みを浮かべながら接してもらったことを思い出す。着物姿とその物腰から多くの人が生粋の京都人と思っていた。しかし本人は大阪生まれで京都に住むようになったのは1975年以後のことである。
八重山の子どもたちに「京都の先生」といわれて面くらい、「私は大阪よ」といったら、意外だという顔をされた。私たちが京都に抱くイメージは大阪とはまったく異なっている。
隣接していても京都、大阪は別世界の印象があるが、そこにはそれぞれの歩んできた歴史が大きくかかわっているからにほかならない。
遠くはなれた八重山の子どもたちにとっても同じで、岡部さんは自分の生い立ちを詳しく話してわかってもらったという。
■おん首のひと
半世紀近く前のことになるが、岡部さんは月刊誌芸術新潮に「観光バスの行かない…埋もれた古寺」を連載していた。そのたおやかな容姿とはうらはらに確かで強い視点を持った文筆家として、将来を嘱望されてのことだったと思う。
学生のころよく目を通したが、内容の詳細についてはほとんど覚えていない。
ただ1つ奈良、秋篠寺の伎芸天(ぎげいてん)像についての冒頭部に「おん首」というのがあった。いわれてみると伎芸天像の頭部は他の仏像にはない親しみやすさと慈悲深さをあわせ持った魅力がある。しかし仏像を語る時の第一声が「おん首」とは、正直いって驚いた。
以来秋篠寺を訪ねるたびに伎芸天像の前に立つと「おん首」を思いおこしてしまう。岡部さんが京都市北区出雲路松下町に居たころ招きを受けたことがあり、ビールをいただきながらその話をしたら「あら恥ずかしいわ」と赤い顔になった。この笑顔こそまさしく「おん首」だと思ったことがある。
■沖縄・八重山とのかかわり
竹富島の「こぼし文庫」のことは八重山の人なら誰もが知っているし、岡部さんとのかかわりも周知のはずである。この文庫を子どもたちが今なお活用しているのをみると岡部さんの思いが、この島で生きていることを実感する。竹富島の人も岡部さんへの思いは格別なものにちがいない。
岡部さんと沖縄とのかかわりは許婚者木村邦夫氏を沖縄戦で亡くしたことに始まるが、彼女の場合は当時「天皇陛下のためなら喜んで死ぬべきだ」という思いに染まっていた。戦争が終わり真実が見えてきた時、すでに戦死していた許婚者へのやるせない思いが以後の人間岡部伊都子を形成していくことになる。
そのことについてはこれまでいろいろ伝えられてきたが、彼女の沖縄への思いは並の感覚では推しはかれないほど大きく深いものになっていく。その思いはさらに朝鮮へとひろがっていき、日本文化の源流である朝鮮文化の考察におよぶ。日本はその大恩を忘れて朝鮮を植民地化する暴挙に出た。「無礼、無礼―無礼きわまりない」という。もっともな怒りである。
沖縄・八重山については作品の中にとりあげられていたり、直接つながりを持った人も少なくない。岡部さんとの親交については多くの人がそれぞれの胸中に思い出を持っていることであろう。
その1つのあらわれが8月15日糸満市の沖縄平和祈念堂で行われた「沖縄より愛をこめて〜岡部伊都子さん追悼コンサート」である。
呼びかけの人が144人におよび大きな盛り上がりであったという。岡部さんへの思いはこれからも沖縄・八重山の地で人びとの心血となって生き続けていくことであろう。
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